げ]
敵の汝に逢わんとて
水陸幾万里
千辛万苦を尽しつつ
輪船火車を乗り代えて
露清両地を過ぐるとき
行装のたびごとに
天道様に祈りをなし
イエス氏にも敬拝すらく
平常一度び逢うことの何ぞ遅きや
心し給え心し給え
東半島大韓帝国に心したまえ
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一同はじっと聴き入っている。
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       7

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時間的に遡《さかのぼ》って、この場の前半は前場と同時刻を繰り返す。

黄成鎬方台所。前の場の左側につづく部屋。舞台正面、下手寄りに廊下へ開くドア。右側に前場の集会所に通ずる扉あり。固く締まっている。反対側に裏口。窓はない。

片隅に土の竈《かまど》、流し場、水桶ありて、鍋、釜、野菜の籠など土間に置いてある。壁にはフライ・パンなどかかり、棚に茶碗、皿小鉢類。他の隅に薪を積み、中央に低い粗雑な卓子と椅子二脚。暗い電燈。

黄瑞露――黄成鎬妻、五十歳ぐらい。ほかに安重根、柳麗玉、禹徳淳、朴鳳錫、白基竜、黄成鎬、同志一、二および前場の青年多勢と露国憲兵数名。近所の人々。

前場の初めと同じ時刻。壁を通して隣室の青年らの話し声が間断なく聞えている。李剛と別れたままの朝鮮服の安重根が、隣室を気にしながら神経質に、足早に歩き廻っている。テエブルの上に古行李が置いてある。安重根は細目に正面下手の扉をあけて廊下の様子を窺ったのち、卓子へ帰り、焦慮に駆られる態にて行李を開けようとし、逡巡する。椅子の一つに柳麗玉が腰かけて、尊敬と愛着の眼で見守っている。

長い間。隣室の話声が高まる。廊下の戸があいて、寝台代りの藁蒲団と毛布を担いだ黄瑞露が顔を出す。
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黄瑞露 柳さん、ちょっと手を貸して下さいよ。これ――。
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安重根は病的に愕く。
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黄瑞露 (びっくりして)何ですよ。何をあわててるんです。
安重根 ああ、びっくりした。考えごとをしているところへ不意に開けるもんだから――ああ驚いた。何です。
黄瑞露 ははははは、お前さんどうかしているよ。こっちこそびっくりするじゃないか、ねえ柳さん。床をとって上げようと思って――。
柳麗玉 あら、もうお寝《やす》みになったんだろうと思っていましたわ。
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