を覺えず。打蕭《うちしを》れたる重景が樣を見れば、今更憎む心も出でず、世にときめきし昔に思ひ比べて、哀れは一入《ひとしほ》深し。『若き時の過失《あやまち》は人毎《ひとごと》に免《まねか》れず、懺悔《ざんげ》めきたる述懷は瀧口|却《かへつ》て迷惑に存じ候ぞや。戀には脆《もろ》き我れ人の心、など御邊一人の罪にてあるべき。言うて還らぬ事は言はざらんには若《し》かず、何事も過ぎし昔は恨みもなく喜びもなし。世に望みなき瀧口、今更|何隔意《なにきやくい》の候べき、只々世にある御邊の行末永き忠勤こそ願はしけれ』。淡きこと水の如きは大人の心か、昔の仇を夢と見て、今の現《うつゝ》に報いんともせず、恨みず、亂れず、光風霽月の雅量は、流石は世を觀じたる瀧口入道なり。
第三十二
早ほの/″\と明けなんず春の曉《あかつき》、峰の嶺、空の雲ならで、まだ照り染めぬ旭影。霞に鎖《とざ》せる八つの谷間に夜《よる》尚ほ彷徨《さまよ》ひて、梢を鳴らす清嵐に鳥の聲尚ほ眠れるが如し。遠近《をちこち》の僧院庵室に漸く聞ゆる經の聲、鈴の響、浮世離れし物音に曉の靜けさ一入《ひとしほ》深し。まことや帝城を離れて二百里、郷里
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