を去りて無人生《むにんしやう》、同じ土ながら、さながら世を隔てたる高野山、眞言祕密の靈跡に感應の心も轉々《うたゝ》澄みぬべし。
竹苑椒房の音に變り、破《やぶ》れ頽《くづ》れたる僧庵に如何なる夜をや過し給へる、露深き枕邊に夕の夢を殘し置きて起出で給へる維盛卿。重景も共に立ち出でて、主や何處と打見やれば、此方の一間に瀧口入道、終夜《よもすがら》思ひ煩ひて顏の色|徒《たゞ》ならず、肅然として佛壇に向ひ、眼を閉ぢて祈念の體、心細くも立ち上る一縷の香煙に身を包ませて、爪繰《つまぐ》る珠數の音|冴《さ》えたり。佛壇の正面には故《こ》内府の靈位を安置しあるに、維盛卿も重景も、是れはとばかりに拜伏し、共に祈念を凝《こ》らしける。
軈て看經《かんきん》終りて後、維盛卿は瀧口に向ひ、『扨も殊勝の事を見るものよ、今廣き日の本に、淨蓮大禪門の御靈位を設けて、朝夕の※[#「※」は「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11、101−2]向《ゑかう》をなさんもの、瀧口、爾《そち》ならで外に其人ありとも覺えざるぞ。思へば先君の被官内人、幾百人と其の數を知らざりしが、世の盛衰に隨《つ》れて、多くは身を浮草の西東、舊《もと》の主人に弓引くものさへある中に、世を捨ててさへ昔を忘れぬ爾が殊勝さよ。其れには反して、世に落人の見る影もなき今の我身、草葉の蔭より先君の嘸かし腑甲斐なき者と思ひ給はん。世に望みなき維盛が心にかゝるは此事一つ』。言ひつゝ涙を拭ひ給ふ。
瀧口は默然として居たりしが、暫くありて屹《きつ》と面《おもて》を擧げ、襟を正して維盛が前に恭しく兩手を突き、『然《さ》ほど先君の事|御心《おんこゝろ》に懸けさせ給ふ程ならば、何とて斯かる落人にはならせ給ひしぞ』。意外の一言に維盛卿は膝押進めて、『ナ何と言ふ』。『御驚きは然《さ》ることながら、御身の爲め、又御一門の爲め、御恨みの程を身一つに忍びて瀧口が申上ぐる事、一通り御聞きあれ。そも君は正しく平家の嫡流にてお在《は》さずや。今や御一門の方々《かた/″\》屋島の浦に在りて、生死を一にし、存亡を共にして、囘復の事叶はぬまでも、押寄する源氏に最後の一矢を酬いんと日夜肝膽を碎かるゝ事申すも中々の事に候へ。そも壽永の初め、指《さ》す敵の旗影《はたかげ》も見で都を落ちさせ給ひしさへ平家末代の恥辱なるに、せめて此上は、一門の將士、御座船《ござぶね》枕にして屍を
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