らや》に一夜の宿を願ひ給ふ御|可憐《いと》しさよ。變りし世は隨意《まゝ》ならで、指《さ》せる都には得も行き給はず、心にもあらぬ落髮を逐《と》げてだに、相見んと焦《こが》れ給ふ妻子の恩愛は如何に深かるべきぞ。御容《おんかたち》さへ窶《やつ》れさせ給ひて、此年月の忍び給ひし憂事《うきこと》も思ひやらる。思ひ出せば治承の春、西八條の花見の宴に、櫻かざして青海波を舞ひ給ひし御姿、今尚ほ昨《きのふ》の如く覺ゆるに、脇《わき》を勤めし重景さへ同じ落人《おちうど》となりて、都ならぬ高野の夜嵐に、昔の哀れを物語らんとは、怪しきまで奇《く》しき縁なれ。あはれ、肩に懸けられし恩賜の御衣に一門の譽を擔ひ、竝《な》み居る人よりは深山木《みやまぎ》の楊梅と稱《たゝ》へられ、枯野の小松と歌はれし其時は、人も我も誰れかは今日《けふ》あるを想ふべき。昔は夢か今は現《うつゝ》か。十年にも足らぬ間に變り果てたる世の樣を見るもの哉。
 果《はて》しなき今昔《こんじやく》の感慨に、瀧口は柱に凭《よ》りしまゝしばし茫然たりしが、不圖《ふと》電《いなづま》の如く胸に感じて、想ひ起したる小松殿の言葉に、顰《ひそ》みし眉動き、沈みたる眼閃《ひら》めき、頽《くづ》せし膝立て直し屹《きつ》と衣《ころも》の襟を掻合《かきあ》はせぬ。思へば思へば、情なき人を恨み侘びて樣を變へんと思ひ決《さだ》めつゝ、餘所《よそ》ながら此世の告別に伺候せし時、世を捨つる我とも知り給はで、頼み置かれし維盛卿の御事、盛りと見えし世に衰へん世の末の事、愚なる我の思ひ料《はか》らん由もなければ少しも心に懸けざりしが、扨は斯からん後の今の事を仰せ置かれしよ。『少將は心弱き者、一朝事あらん時、妻子の愛に惹《ひ》かされて未練の最後に一門の恥を暴《さら》さんも測《はか》られず、時頼、たのむは其方一人』。幾度となく繰返されし御仰《おんおほせ》、六波羅上下の武士より、我れ一人を擇ばれし御心の、我は只々忝なさに前後をも辨《わきま》へざりしが、今の維盛卿の有樣、正に御遺言に適中せり。都を跡に西國へ落ち給ひしさへ口惜《くちを》しきに、屋島の浦に明日《あす》にも亡びん一門の人々を振り捨てて、武士は櫻木、散りての後の名をも惜しみ給はで、妻子の愛にめゝしくも茲まで迷ひ來られし御心根《おんこゝろね》、哀れは深からぬにはあらねども、平家の嫡流として未練の譏《そし》りは末代《
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