田鬼斎氏が百円という売価を附けたので驚いた位の時代でありますから、まだ、知名の人でもない田中氏が百五十円というのは不当のようでしたが、私の目から見て、歳月の掛かっていることと、努力の籠《こも》っていることに対して、まだまだ安いとも思われました。その頃は木彫りの置き物一個三十円から、七十円というのが関《せき》の山《やま》であったのに、これは異例でしたが、やはり一心の籠《こも》ったものは恐ろしいもので、見処《みどころ》があったと見え宮内省の御用品となりました。後に或る奈良の宮家へ下されたそうですが、それをまた奈良の新薬師寺の尼さんが御ねだりして拝領して、今は同寺の宝物になっているそうであります。田中栄次郎氏、号を祥雲といいました。奇行|湧《わ》くが如き人で、頤《あご》はずしの名人でありました。……あごはずしというのは、言葉通り大笑いと、大あくびで、ひょっとすると、頤がはずれるので、両手で抑《おさ》えたり、縦に八巻《はちまき》をしたりして、用達《ようたし》をして人を驚かせたり笑わせたりしました。人柄は無類で、腕も今申す通りで、惜しい人でしたが一昨年故人となりました。生前、私のことを恩にしていたと見え、或る年、家内が大阪見物に参った折など別して親切にしてくれたそうで、私も昔の心持を忘れぬ同氏の好意をうれしく思ったことであります。祥雲氏は精密なものが特に得意であったが、或る大阪の商人から頼まれ、興福寺の宝物の華原磬《かげんけい》(鋳物で四|疋《ひき》の竜が絡《から》んだもの)というものを黄楊《つげ》で縮写したのを見ましたが、精巧驚くべきものでした。これも三年掛かったと本人が私に話していました。風采は禅坊主見たいな人で、庵室《あんしつ》にでも瓢然《ひょうぜん》として坐っていそうな風の人であった。
ちょうど、祥雲氏と同時代に私の宅にいた人で越前|三国《みくに》の出身滝川という人を弟子にしました。これは毎度話しに出た彼の塩田真氏の世話で参った人であります。三年ばかり宅にいました。この人もまた実に不思議な人で、器用というのは全くこういう人の代名詞かと私はいつも思ったことであります。まず、たとえば、料理が出来る。経師屋《きょうじや》が出来る。指物《さしもの》が出来る。ちょっと下駄の鼻緒をすげても、まるで本職……すべてこんな調子ですることが素人ばなれがしているのです。しかも仕事が非常に早く屈托もなく、すらすらとやって退《の》ける。それから編み物が旨《うま》い。チクチク針を運ぶ手などは見ても面白いようでした。また月琴《げっきん》が旨い(その頃はまだ月琴などいうものが廃《すた》っていませんでした)。すべてこういった調子に相当折り紙つきの黒人《くろうと》でした。また何をさせても一通りに出来ました。
しかし、こういう人の癖として、ずば抜けてはいないのでした。万能《ばんのう》的なのは一心がかたまらぬせいか、心が籠《こも》らないせいか、傑出するには足りなかった。それを見ると、不器用の一心がかえって芸道のことには上達の見込みがあるか。とにかく、米原雲海氏などとは違った畑の人であって、貫徹《つらぬ》いては出来ない側の類です。滝川氏はまた特に写真が上手であったが、私の宅にいる間、私や他の弟子たちが写真機などをいじっていても、写真の写の字もいいませんでした。私宅を出る際、初めて自分は写真をもって本職として世に立つ考えで、写真は多年苦心をしたものであると打ち明けました。この話を聞いた時に私はそのたしなみ[#「たしなみ」に傍点]のえらいのに感心しました。後日この人が写真師となって私の写真を取ったのが今も残っております。
こういう風の性格の人であったから無理ならぬことですが、とかく商売気が旺《さか》んであって、じっと落ち附いて一向専念に彫り物をするなどいうことは性には合わなかったと見えます。写真をもって世に立つ考え故、今日でいえば浅沼《あさぬま》の向うでも張る気で大仕掛けに台紙などを売り出したりして大儲《おおもう》けをしたり、また損もしたりしました。それになかなかの雄弁家で、手も八|丁《ちょう》口も八丁とはこの人のことでありましょう。私の手元の門人控え帳の連名を見ますと、おおよそ六十幾人の名が並んでいるが、この滝川氏の如く多芸な人はありません。
それから、やはり谷中時代の人で、今日は銅像製作で知名の人となっている、本山白雲氏があります。氏は土佐の人、同郷出身の顕官|岩村通俊《いわむらみちとし》氏の書生をしていて、親を大切にして青年には珍しい人で美術学校入学の目的で私の宅へ参って弟子になりたいということで、内弟子となっていました。後に学校に這入りました。今日でも氏は能く昔のことを忘れず、熱さ寒さ盆暮には必ず挨拶にきてくれます。今では銅像専門の立派な技術を持った人です。
それから、今日では鋳造の先生で原安民氏が、彫刻の手ほどきは私の宅にてされました。氏は大磯の人、その頃は川崎伊三郎といいました。
もう一人、俵光石という房州|北条《ほうじょう》の石屋さんがあります。この人が宅へ参ったのはちょっと話がある。
谷中茶屋町の私の宅はお隣りが石屋でした。私の宅にて中二階の仕事場を建てましたので、二階から仕事場が手に取るように見え、また石屋の方からこちらの仕事をしているのも見えました。一方は木、一方は石の相違はあっても同じく物の形を彫って仕事をしているのには違いはありません。もっとも石屋の方では主《おも》に石塔のようなものを彫っているが、時には獅子《しし》、狐、どうかすると観音などを彫っていることもある。こっちでは動物流行の折からで、象、虎、猿、などいうものを彫っている。石も材料、木も材料、材料は違うけれども双方ともに彫刻師である……にもかかわらず、石屋さんの仕事場の方ではこっちの仕事をしているのを振り向きもせず、さらに知らない顔をしている。てんで無感覚であります。これを見て私は思ったことですが、いかに何んでも、お互いに物の形を彫ることを職業としている身でありながら、自分たちからは異《ちが》った材料でやっている仕事の工合は一体どんなものだろう。木彫《もくちょう》をやってる彼の人たちの、腕を一つ見てみよう位の気は起りそうなもの、こっちでは随分毎日仕事の合間《あいま》に石屋のこつこつ叩《たた》いている処を見て、もうあの獅子の頭が見えて来た、狐の尻尾《しっぽ》があらわれたと、形の如何《いかん》はとにかく、段々と物の形の現われて来るのを楽しみにする位にして見てもいるのに、石屋の職人たちの気のなさ加減にもほどがあると、余計なことですが、私はそう思いました。そう思うにつけて、何かこちらでも石を彫って見たい気持になる。石というものも彫れば我々にも彫れるものか――彫って見れば彫れぬこともあるまい。彫れば、まさかにあんな形を平気でやりもしない。どうせ、物を彫るものなら、もう少し、石であっても物の形を研究すれば好いのに、あれでは石の材料が可哀《かわい》そう……一つ石を彫って、もっと物らしい物をこしらえて見たい……というような物数寄《ものずき》な気が起るのでありました。
それで、或る時、毎度話に出ました例の馬の後藤貞行さんに逢った時、私がこの話をして見ると、後藤さんも至極同感で、いろいろ話の末に、同氏のいうには、「私の知人の軍人の知り人に北条の石屋で俵という人がありますが、この人は石屋に似合わず感心な人で、ざらの石屋職人と違い、石でも一つ本当に彫刻らしいものを彫って見たいといろいろ苦心しているそうですが、田舎のことで師匠もなく、困っているという話を、その軍人上がりの友達が私に何んとかならないものかと話していましたが、高村さん、あなたが、そんな気がおありなら、一つそういう人を仕込んで見たらいかがです。必ず、相当、石で物を作ることが出来るようになるかも知れませんよ」
こういう話を後藤さんがしましたので、「それはおもしろい。その人は根が石屋だから石を扱うことは出来よう。物を彫る心を教え込めば物になりましょう。やらせて見たい」というような話になりました。この話が基になり、後藤さんを介して軍人上がりの人からその話を俵氏に通じますと、俵氏は日頃から望んでいることですから、早速、北条から東京へ出て来て、私を尋ねて参りました。無論、相当石屋の主人のことで、生計《くらし》の立っている人ですから、万事好都合でした。
それから、石ということを頭に置いて色々なことを試みさせて見ましたが、彫ることには心がないのではありませんから、なかなか満更《まんざら》ではありません。或る時は私の作の狆《ちん》を手本にして、伊豆から出る沢田石で模刻させて見ると、どうやらこなして行きます。石にして見るとまた格別なもので、石の味が出て来ておもしろい所があって、前に雲海氏の衣川の役の作が安田家に買われた縁故などもあって、この石の狆は、安田家に買われ、新宅のバルコニイの四所の柱の所へ置き物にするというので四つ拵《こしら》えて納めたりしました。
こんなことから、美術学校にも石の部を設けたらどうかという話などが出て、岡倉校長も賛成して、俵氏に標本を作らせて、石を生徒にやらせたりしました。
光石氏の石の作としては、平尾賛平氏の谷中の菩提所《ぼだいしょ》の石碑の製作があります。これは墓石のことで少し仕事が別にはなりますが、仕事は花崗石《みかげ》で手磨きにして、墓石は別に奇を好まず、形は角で真《ま》じめな形ですが、台石の周囲などに光石君の石彫としての腕が現われております。私の弟子の中に石彫家のあるのはこの人だけです。今は北条に帰って活動しております。
底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
1929(昭和4)年1月刊
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2007年4月30日作成
青空文庫作成ファイル:
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