て見ると、後藤さんも至極同感で、いろいろ話の末に、同氏のいうには、「私の知人の軍人の知り人に北条の石屋で俵という人がありますが、この人は石屋に似合わず感心な人で、ざらの石屋職人と違い、石でも一つ本当に彫刻らしいものを彫って見たいといろいろ苦心しているそうですが、田舎のことで師匠もなく、困っているという話を、その軍人上がりの友達が私に何んとかならないものかと話していましたが、高村さん、あなたが、そんな気がおありなら、一つそういう人を仕込んで見たらいかがです。必ず、相当、石で物を作ることが出来るようになるかも知れませんよ」
 こういう話を後藤さんがしましたので、「それはおもしろい。その人は根が石屋だから石を扱うことは出来よう。物を彫る心を教え込めば物になりましょう。やらせて見たい」というような話になりました。この話が基になり、後藤さんを介して軍人上がりの人からその話を俵氏に通じますと、俵氏は日頃から望んでいることですから、早速、北条から東京へ出て来て、私を尋ねて参りました。無論、相当石屋の主人のことで、生計《くらし》の立っている人ですから、万事好都合でした。
 それから、石ということを頭に置いて色々なことを試みさせて見ましたが、彫ることには心がないのではありませんから、なかなか満更《まんざら》ではありません。或る時は私の作の狆《ちん》を手本にして、伊豆から出る沢田石で模刻させて見ると、どうやらこなして行きます。石にして見るとまた格別なもので、石の味が出て来ておもしろい所があって、前に雲海氏の衣川の役の作が安田家に買われた縁故などもあって、この石の狆は、安田家に買われ、新宅のバルコニイの四所の柱の所へ置き物にするというので四つ拵《こしら》えて納めたりしました。
 こんなことから、美術学校にも石の部を設けたらどうかという話などが出て、岡倉校長も賛成して、俵氏に標本を作らせて、石を生徒にやらせたりしました。
 光石氏の石の作としては、平尾賛平氏の谷中の菩提所《ぼだいしょ》の石碑の製作があります。これは墓石のことで少し仕事が別にはなりますが、仕事は花崗石《みかげ》で手磨きにして、墓石は別に奇を好まず、形は角で真《ま》じめな形ですが、台石の周囲などに光石君の石彫としての腕が現われております。私の弟子の中に石彫家のあるのはこの人だけです。今は北条に帰って活動しております。



底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
   1929(昭和4)年1月刊
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2007年4月30日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全5ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
高村 光雲 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング