せんよ」
私は答えました。
「では、私が一遍発光路へ行って見て来ましょう」
「まあ、も少し待って見ていましょう。五月一杯だけは……」
そういって、もう音信《たより》はないものと思いながらも約束は約束だから待っていますと、先方も満更《まんざら》打っちゃって置いたのではなく、五月の末になって、長谷川栄次郎からたよりがありました。それで、今度は後藤君に出掛けてもらうことにして、氏は二度目に発光路へ参りました。
そうすると、いろいろ難儀なことが出来て、実に閉口したと帰って来てから後藤君が話された処によると、木挽《こびき》は木を四ツにしたのです。直径《さしわたし》六、七尺のものを長さ六尺ずつ二つに切り、それを縦に二つに割ったのです。これは持ち運びのために重量を減らすつもりで、切り倒したその場でやった仕事だが、これがかえって仕事の邪魔になって大変面倒だったのです。というのは二つ割りにしたために木の形が蒲鉾型《かまぼこがた》になったから、崖《がけ》から下へ転《ころ》がり落とせなくなったのです。丸太のままで置けば、両手で押してもごろごろと下まで落とせたものを、蒲鉾型になったので、どうしようもない。二人や三人では動かすことも出来なくなった。しようがないから人足を頼んで、いろいろ仕掛けをして、ずるずると下へ辷《すべ》り卸したということですが、こういうことには経験のありそうなはずの山の人間でも智慧《ちえ》が働かなかったか二つに割ってしまった。またわれわれにもこういうことに経験があったら、前に注意をして置けばよかったのに、経験のないため、飛んだ無駄骨《むだぼね》を折ることになりました。
さて、山から麓《ふもと》までは、どうやら辷り落としたが、其所《そこ》から往来まで持ち出すのがまた大変……山|際《ぎわ》には百姓家の畠があって、四、五月から物を植え附けてある。その畠を転がさねば往来へ木は出ません。
「損害は賠償するから、どうか、畠を通して下さい」
後藤君は畠の持ち主に頼んだが、どの持ち主も不承知。これには後藤君もハタと当惑しました。
「どうも面倒なことが出来て困りました」
といって後藤君は帰って来ました。
訳は、百姓が畠を荒されるので、木を通さないということ。いろいろ相談しました結果、今度発光路へ行く時は学校用品を買って持って行こうということにしました。それはこうした山村で学校用品も乏しく、東京の品は珍しいので、これを小学校の生徒へお土産《みやげ》にすれば、生徒は無論、父兄や、教員たちはきっとよろこぶであろう。そこで校長から父兄に訳をいって頼んでもらったら、こっちの好意もあることで、何処までも意地を張りもしなくなるであろうという思い附き。これは両方で都合も好いことで、甚だ名案だというので、後藤君は学校用品を仕入れて三度目に発光路へ出張したのであった。
そうして、目論見《もくろみ》通りをやったところ、予期通りそれが旨《うま》く行って、文句なしに畠を通してくれました。此所《ここ》まで漕《こ》ぎ附けるには容易なことではなかったので、後藤君がいろいろ骨を折ってくれましたが、確かこの三度目の時に後藤君と一緒に新海竹太郎君も同行されていろいろ面倒なことをやって下すったと記憶しております。
木は往来まで出すには出しましたが、これから船に積むので牛車に附け、人足が大勢掛かって川岸まで二里ほどある道を運ばなければならないのです。それに、川まで行く間に小川が二つあって、田舎のことで粗末な橋が架かっているのだから、非常な重量な牛車は通れません。まず橋の手入れとして予備|杭《ぐい》などをやって大丈夫という所で、牛車を通したような訳で、手間の掛かること夥多《おびただ》しく、そのため運賃は以前約束した四十円どころでなく、その六、七倍となりました。それから糟尾川《かすおがわ》を船に積んでそれから道中長々と花川戸まで出すことにして、後藤君らは帰って来ましたが、花川戸の河岸まで来るのがまた容易でなく、随分日数を重ねまして、総領娘が亡くなる少し前、八月の半ば過ぎにやっと河岸へ着いたという報《しら》せを受けました。
それから、木を谷中の家へ引き取りましたが、庭に抛《ほう》り出して置くほかにしようもなく、大きな四ツの蒲鉾なりの木が転がったままで雨被いを冠《かぶ》っておりました。
しかしこの材木は後でなかなか皆さんの重宝にはなりました。
政府から四百円の補助を私は受けたけれども、この材木のために半額の二百円ほどとられました。木代は三円ですが、面倒の交渉に使った旅費、学校用品代、橋の修繕費、運賃などで二百円以上を掛けたのは、先の四十円の予算とは大変な番狂わせでありました。
右の材の一つ分は、竹内先生が使い、も一つは山田鬼斎氏にお譲りし、も一つは二、三の先生が分けられたように記憶しています。それを思うと、二百円も高いものではなかったのです。
私は、いよいよ猿を彫ろうと目論《もくろん》でいる処へ、八月の末に娘が加減が悪くなり、看護に心を尽くした甲斐もなく、九月九日に亡くなってしまいましたので、私の悲しみは前にも申したような次第で、一時は何をする気も起りませんでしたが、こういう時に心弱くてはと気を取り直し、心の憂《う》さを散らすよすがともなろうかと、九月十一日娘の葬送を済ますと直ぐに取り掛かったことでした。
もはや、明治二十五年も九月の半ば、農商務省からの日限はその年の十二月のさし入れに製作を納めなければならんという注文。今日から手を附けても、随分時期は遅れております。木は庭に雨掩《あまおお》いをこしらえて、寝かせたままで、動かすことも出来ません。何しろ一片が九十貫もあるのですから……。
そこで、いよいよ鑿《のみ》を入れて見ましたが、栃は木地の純白なものと思っていたのは案外。この材の色は赤黒く、まるで桜のように茶褐色《ちゃかっしょく》でありますので、最初の白猿を彫ろうという予期を裏切られました。しかし、材質はなかなかよろしく、彫刻には適当でありました。栃の木の木地の純白なのは若木のことで、この木のように年を経ては茶褐色を呈して来るものかと思いました。
白猿の当てははずれたが仕方なく、考えを変えて野育ちの老猿を彫ることにしました。とても仕事場へ運んで屋根の下で仕事をすることは出来ませんので、庭の野天で、残暑の中に汗みずくとなり、まず小口《こぐち》からこなし初めました。何しろこのような大きなものだから、弟子を使ってやりました。その頃|米原雲海《よねはらうんかい》氏も私の宅に来ていたので手伝い、また俵光石氏も手伝いました。
娘のことで、ほとんど意気消沈しておりましたのが、この仕事で大いに勇気附けられ、また紛れました。
それから、モデルはその頃浅草奥山に猿茶屋があって猿を飼っていたので、その猿を借りて来ました。この猿は実におとなしい猿で、能《よ》くいうことを聞いてくれまして、約束通りの参考にはなりました。物置きに縛《つな》いで置いたが、どんなに縄をむずかしく堅くしばって置いても、猿というものは不思議なもので必ずそれを解いて逃げ出しました。一度は一軒置いてお隣りの多宝院の納所《なっしょ》へ這入り坊さんのお夕飯に食べる初茸《はつたけ》の煮たのを摘《つま》んでいるところを捕《つか》まえました。一度は天王寺の境内へ逃げ込み、樹から樹を渡って歩いて大騒ぎをしたことがありますが、根がおとなしい猿のことで捕まえました。
私の猿の彫刻はほとんど原型がなく(ほんの小さなものをちょっとこしらえたが)、いきなり、カマボコなりの八、九十貫ある木をつかまえて、どしどし小口からこなして行ったのでした。栃の木は檜や桜などと違って、また一種のものでちょっと彫りにくいところのあるものです。農商務省との約束は十二月のさし入れというのですが、その年一杯にはとても仕上がらず、翌年へ掛かったのでした。
底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
1929(昭和4)年1月刊
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2007年4月30日作成
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