たように記憶しています。それを思うと、二百円も高いものではなかったのです。
私は、いよいよ猿を彫ろうと目論《もくろん》でいる処へ、八月の末に娘が加減が悪くなり、看護に心を尽くした甲斐もなく、九月九日に亡くなってしまいましたので、私の悲しみは前にも申したような次第で、一時は何をする気も起りませんでしたが、こういう時に心弱くてはと気を取り直し、心の憂《う》さを散らすよすがともなろうかと、九月十一日娘の葬送を済ますと直ぐに取り掛かったことでした。
もはや、明治二十五年も九月の半ば、農商務省からの日限はその年の十二月のさし入れに製作を納めなければならんという注文。今日から手を附けても、随分時期は遅れております。木は庭に雨掩《あまおお》いをこしらえて、寝かせたままで、動かすことも出来ません。何しろ一片が九十貫もあるのですから……。
そこで、いよいよ鑿《のみ》を入れて見ましたが、栃は木地の純白なものと思っていたのは案外。この材の色は赤黒く、まるで桜のように茶褐色《ちゃかっしょく》でありますので、最初の白猿を彫ろうという予期を裏切られました。しかし、材質はなかなかよろしく、彫刻には適当でありました。栃の木の木地の純白なのは若木のことで、この木のように年を経ては茶褐色を呈して来るものかと思いました。
白猿の当てははずれたが仕方なく、考えを変えて野育ちの老猿を彫ることにしました。とても仕事場へ運んで屋根の下で仕事をすることは出来ませんので、庭の野天で、残暑の中に汗みずくとなり、まず小口《こぐち》からこなし初めました。何しろこのような大きなものだから、弟子を使ってやりました。その頃|米原雲海《よねはらうんかい》氏も私の宅に来ていたので手伝い、また俵光石氏も手伝いました。
娘のことで、ほとんど意気消沈しておりましたのが、この仕事で大いに勇気附けられ、また紛れました。
それから、モデルはその頃浅草奥山に猿茶屋があって猿を飼っていたので、その猿を借りて来ました。この猿は実におとなしい猿で、能《よ》くいうことを聞いてくれまして、約束通りの参考にはなりました。物置きに縛《つな》いで置いたが、どんなに縄をむずかしく堅くしばって置いても、猿というものは不思議なもので必ずそれを解いて逃げ出しました。一度は一軒置いてお隣りの多宝院の納所《なっしょ》へ這入り坊さんのお夕飯に食べる初茸《は
前へ
次へ
全9ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
高村 光雲 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング