幕末維新懐古談
木彫の楠公を天覧に供えたはなし
高村光雲
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)稀《まれ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)侍従長|徳大寺《とくだいじ》公
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原型の楠公像はすべて檜材を用い、原型全部出来ましたので、明治二十六年三月十六日に学校庭内に組み立て、時の文部大臣並びに学校に関係ある諸氏の一覧に供したのであるが、住友家から学校へ製作を依嘱したのが明治二十三年。着手したのが翌年の四月ですから、木彫原型が全部出来上がった二十六年の三月までには約四ヶ年間を要したのであります。大勢の人と長い時日を要しただけあって原型はなかなか大きなものでありました。今日では帝国美術院の展覧会でも、また個人の製作にしても随分大作が出来るけれども、まだ明治二十五、六年頃にはこの楠公像の木彫のような大作は稀《まれ》であったから世間で珍しく評判をしたものらしい。美術学校は前申した通り我邦固有の美術工芸を保存し、また奨励する主旨によって開かれたものでありますから、そうした思し召しが一入《ひとしお》お深いと洩《も》れ承りまする先帝(明治天皇の御事)には、時々侍従をお使いとして学校へお遣《つか》わしになって、生徒の作品のようなものをもお持ち帰りで、お慰みに御覧に入れたこともありまして、何かと宮内省とは縁故がありましたから、今度の楠公の馬については主馬寮《しゅめりょう》の藤波氏にも種々お尋ねした関係もあり木型の出来上がったことも、侍従局から叡聞《えいぶん》に達したのでありましょう。
それで、右の木彫を宮城へ持って来て御覧に供せよとの御沙汰《ごさた》が岡倉校長に降《くだ》ったのでありました。その事について、三月十七日、斎藤侍従が学校へお出でになって校長と打ち合せの上、上覧に供える時日は来《きた》る二十一日午前十時と定められました。
学校は名誉なことにて早速お受けを致して、関係者一同協議をしましたが、何しろかなり大作であるから、御指定の場所にそれを運搬して組み立てるまでの手順、何時間手間が掛かるか、途中故障などが生ずるようなことはないか、その辺のことを充分研究する必要がありますので、まずその練習をすることになりました。
行《や》り方は、三本の丸太をもって足場の替りにして、滑車《せび》で引き揚げると、旨《うま》く組み立てが出来まし
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