生はその時美術学校の教官であったので、学校の正服を着けて、学生を率いて式場附近へ参列する途中であったということが分ったのでありました。私は実は早合点《はやがてん》をして竹内さんの好みで古代の服装でも真似《まね》て町内の行列へ這入ったのだと思ったことで、竹内さんが学校の教師になっていられることなどは少しも知りませんのでした。
憲法発布式のあったのは二月のこと。三月にはいって間もなく、或る日竹内|久一《きゅういち》氏が私宅《わたくしたく》を訪問されました。
「高村さん、今日は私は個人の用向きで来たのではありません。今日は岡倉覚三《おかくらかくぞう》氏の使者で来たのです」
という前置きで、その用件を話されるのを聞くと、私に美術学校へはいって、働いてもらいたいという岡倉氏の意を受けてお願いに来たのだということであった。私は寝耳に水で、竹内さんのいってることがちょっと要領を得ないので、
「一体、今お話しの美術学校というのは何んですか。またその学校は何処《どこ》です」
と聞くと、竹内さんもちょっと意外な顔をしていましたが、
「美術学校は上野にあります。現に私はその美術学校の教師を勤めているのです。浜尾新《はまおあらた》氏が校長で、岡倉さんは幹事です。この美術学校というのは日本画と彫刻とで立っているので、岡倉さんがあなたに来てもらいたいという主意はその木彫《もくちょう》の方の教師になってもらいたいというのです。岡倉さんもいろいろこの事については考えたが、どうも他に適当の人がない。それで是非あなたに這入ってもらって一つ働いて頂こうということになったのだから、これは一つ否《いや》が応でも引き受けて頂かねばなりません」という話であった。
これで一通り事情は分ったが、さて、私に取っては困ったことであった。
「そうですか、私はちっともそういう学校の出来ていることを知らなかった。今のお話でよく訳は分りましたが、どうも私はそういう学校というような所へ出て教師の役をつとめるなどということは私には不向きだと思います。つまり、私はその衝に当たる人でないと思います。家にいて仕事をして傍《かたわ》ら弟子を教えることなら教えますが、学校というようなことになると私には見当が附きません。御承知の通り、私はそういう生《お》い立ちでありませんから……なまじっか、柄にないことに手を出して見た処で、自分も困る
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