で二、三度も出掛けたことがありました。
私はいよいよ学校へ出ることになりました。
しかし、その時はまだ本官ではなかった。お雇いというのであったが、東京美術学校雇いを命ずという辞令を受けたのが明治二十二年三月十二日で、月俸三十五円給すということでありました。生まれて初めて辞令を手にした私にはよく分らない。学校へ雇われるのだからお雇いというので、皆《みんな》がお雇いなのか、自分だけが雇いなのか、そんなことすら一向訳が分らなかった。学校は二月十一日の憲法発布式当日に開校したので、私が這入《はい》る前に加納鉄哉《かのうてつや》氏が這入っておられたらしいが、どういう訳であったか、氏は暫くの間で出てしまわれたので、そのあとへ私を岡倉氏や竹内氏が引っ張り出したのでありました。
約束通りに私は学校の仕事場へ行って仕事をすることになった。それで毎日学校へ行くのに、例の服を着て出なければならないのに、変てこで困りましたが、しまいには馴《な》れて着て出ました。
その頃の美術学校は上野公園の現在の場所とは模様が違っておった。その頃、屏風坂《びょうぶざか》を上って真直に行くと動物園の方から来る通りで突き当りになる、其処《そこ》に教育博物館というのがあって、わずかな入場料を取って公衆に見せていた。その博物館の後ろの方に空《あ》いた室があって、それを美術学校で使っていたので、学校は博物館に同居していたのです。博物館の裏口に美術学校の看板が掲っていました。それで、彫刻の教場はどうかというと、バラックようのもので、まだ一つの教場という形を為《な》しておらなかった。
教育博物館の方はなかなか整頓《せいとん》していて、植物などはいろいろな珍しいものが蒐《あつ》めてあったが、或る方面は草|茫々《ぼうぼう》として樹木|繁《しげ》り、蚊の多いことは無類で、全く、まだ美術学校も開校早々という有様でありましたが、その中《うち》段々と生徒も殖《ふ》えて、学校の範囲が広くなったものですから、博物館は引っ越して全部その跡を学校が使うことになり、年とともに旺《さか》んになったのであるが、明治四十四年の一月二十五日の零時二十分に出火して大半を焼失してから、さらに新築して現在のような形になったのであります。
私の学校へ這入った時分は、今の枢密院副議長浜尾男爵が校長で、故岡倉覚三先生が幹事、有名なフェノロサ氏が
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