って見ますと、驚いたことには大仏の骨はびく[#「びく」に傍点]ともせず立派にしゃんとして立っております。しかし無残にも漆喰は残らず落ちて、衣物《きもの》はすっかり剥《は》がれておりました。私は暫く立って見ていましたが、どうも如何《いかん》ともしがたい。ただ、骨だけがこう頑丈《がんじょう》にびくともせずに残っただけでも感心。左右前後から丸太が突っ張り合って自然にテコでも動かぬような丈夫なものになったと見えます。それに漆喰が剥《と》れて、すべて丸身をもった形で、風の辷《すべ》りがよく、当りが強くなかったためでもありましょうが、この大仏が出来てから間もなく、直ぐ向うの通りに竹葉館という興業ものの常設館が建って、なかなか立派に見えましたが、それが、一たまりもなく押し潰《つぶ》され、吹き飛ばされているから見ますと、大仏は骨だけでもシャンとしていた所は案外だと思って帰ったことでありました。
この大嵐《おおあらし》は佐竹の原の中のすべてのものを散々な目に逢わせました。
葭簀張《よしずば》りの小屋など影も形もなくなりました。それがために佐竹の原はたちまちにまた衰微《さび》れてしまって、これから一賑わいという出鼻を敲《たた》かれて二度と起《た》ち上がることの出来ないような有様になり、春頃のどんちゃん賑やかだった景気も一と盛り、この大嵐が元で自滅するよりほかなくなったのでありました。
大仏は、もう一度塗り上げて、再び蓋を明けて見ましたが、それも骨折り損でありました。二度と起てないように押し潰された佐竹の原は、もう火の消えたようになって、佐竹の原ともいう人がなくなったのでありました。
しかし、このために、佐竹の原はかえって別の発達をしたことになったのでありました。
というのは、興業物が消えてなくなると、今度は本当の人家がぽつぽつと建って来たのであります。一軒、二軒と思っている中に、何時《いつ》の間《ま》にか軒が並んで、肉屋の馬|店《みせ》などが皮切りで、色々な下等な飲食店などの店が出来、それから段々開けて来て、とうとう竹町という市街《まち》が出来て、「佐竹ッ原」といった処も原ではなく、繁昌な町並みとなり、今日では佐竹の原といってもどんな処であったか分らぬようになりました。
若い時は、突飛な考えを起して人様にも迷惑を掛け、また自分も骨折り損。今から考えると夢のようです。
底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
1929(昭和4)年1月刊
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2007年2月15日作成
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