。
それで府の勧業課の掛かりの人たちもよろこび、中に彫刻熱心の人たちが賛助会員になったりしました。
既に彫工会も充分成立の基礎が認められたので、学芸員と一般会員の多数で二十一年上野の美術協会陳列館で第一回彫刻競技会を開き一般の観覧を許しました。これが彫工会の競技会の初まりです。こうなるといよいよ会頭がなくてはならないので、最初の会頭に渡辺洪基《わたなべこうき》氏を撰みました。同氏は永く会のために尽力されました。途中死去され、没後は榎本武揚氏。氏が没して後は土方久元《ひじかたひさもと》氏。それから現在の会頭は平山成信《ひらやまなりのぶ》氏で、井生村で発会以来今日までおよそ四十余年の間継続されております。
右の如く東京彫工会は、彫刻会の先駆であった日本美術協会に次いでの古い会でありますが、当初美術協会の存在しているのにかかわらず、この会の出来たのは、美術協会に対して不平があって分派したとか独立したとかいう訳ではなくして、前述の通りの行きさつ[#「行きさつ」に傍点]から勢いとして生じたものでありますが、この彫工会の方は全く彫刻専門であった。後日に到《いた》って彫刻の世界のものは種々包含されて、木の部に竹彫が入って木竹部となりました。牙彫の方は牙角介甲部となりその他種々部が出来て、今では十何部となってすべてを網羅《もうら》したのであるが、最初は牙彫だけで、木彫は一両人であったのです。
かくの如く、種々網羅されるにつけて、会の性質が美術協会に似て来ましたが、しかし協会の方は絵画が中堅となっており、蒔絵、織物、刺繍《ししゅう》、写真など工芸的に一層範囲が広く、彫工会の彫刻と限られたのとはもっと広大なものになりました。そうして彫工会の方でも、金工部は金工会など独立して会を成立しますし、また協会の方でも蒔絵の方では漆工会などが独立して、種々雑多な会が現われて来ました。
要するに、東京彫工会もまた当時美術界に貢献することの多かったことは美術協会に次いでの功績であったことと思います。
同会は現在の会員数は八百名以上であります。
底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
1929(昭和4)年1月刊
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2006年12月22日作成
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