だけは上げてあっても、実際の人数は半数にも満たないような結果になって、結局、技術側の勝ちといったようなことになったのでありました。
彫工会の成立は、この事件が導火線となったのであります。今まで、種々、組合の対抗運動について奔走|斡旋《あっせん》した人々の中で、旭玉山氏は主要な人でありました。同氏は湯島天神町一丁目(天神境内)に邸宅を構え、堂々門戸を張っておりました。現在は京都に住居して八十三の高齢で現存の人でありますが、なかなか文学もあり、緻密《ちみつ》な脳《あたま》の人で、工人に似ず高尚な人で、面倒な事務を引き受けて整理してくれましたから、誰|推《お》すとなく、玉山氏を先生派の中心人物のようにしている処から、同氏宅を仮事務所に宛《あ》て、此所《ここ》へ技術派の重な人々が五人十人毎日集まっては善後策を講じたわけでありました。
「折角此所まで進んで来て、このままで済ましてしまうのは惜しいではないか。何んとかしようではないか」
という意見が誰いうとなく起って来た。
「それでは一つこの意気組みで会を起そうではないか。今、この場合に拵《こしら》えて置かんとまたこの後野心家が面倒なことをやり出すかも知れん。今会を起せば三百人や二百五十人位の会員はたちまち集まる。会を起そう」
という相談が纏まりました。
これは行き掛かりの上の勢いから自然こういう風になったのであります。そこでいよいよ一つの会を起すとなると、相当学識のある人もなくてはならない。また会の事務に当る事務的才能のある人、また会則を作るということに精通した人をも要することになって来ましたが、その向きの人々には誂《あつら》えたような先生たちが美術協会の会員の方にある。幸い、美術協会の関係で予《かね》て協会員として懇意の人々のこと故、塩田真氏、前田健次郎氏、平山英造氏、大森惟中氏などを頼んで相談相手となってもらいました。
この人々は官民間で夙《つと》に美術界のことに尽力していた人で、当時の物識《ものし》りであり、先覚者でもあったのであります。
ここで私もこの人たちの集まりの中に顔を出すことになるのですが、しかし、私は牙彫の方ではありませんから、直接この事件の起った当時からこの行きさつの中へ無論這入っておらぬのでありますがどういう相談があったものか、この方から私へ使いを遣《よこ》して私にも相談相手になってもらいたいという申し込みがありました。
もっとも、これは石川光明氏とは私は兄弟も啻《ただ》ならぬ親密の中のこと故、同氏からの話もあり、他の玉山氏その他の人々とも日頃懇意の仲柄であるから、私を引っ張り出そうということになったと見えます。私は、仕事の方でも畠違い、最初から関係もないことで、大してお役にも立つまいが、彫刻界の発達向上のためのこととあればお仲間へ這入ろうと承諾をしたのでありました。それから、毎晩天神の玉山氏宅へ参って、人々と膝《ひざ》を交え、発会の相談にあずかったわけでありました。
さて、会を起すについては、会則を作り、会頭、理事、評議員というようなものの必要を生じて来る。会の取り扱うべき事柄についてもいろいろ討議する。毎月常会を開き、青年子弟の養成ということについて、特に重要視し、まず若い人々の製作を集めて常会に出品し優劣を評定して褒美《ほうび》として参考書の類を授けるということなどを初めとして、種々《いろいろ》審議されました結果、彫刻の大会を年に一回開催するという話が纏まったのであります。そうして、会費のようなものも、甲乙丙の三種で、師匠分の人は甲、独立している程度の所は乙、まだ年季中の者で、弟子連中は丙というように公平に取り扱い、会の維持法等については、合理的に能《よ》く相談を致し、また会頭、幹事並びに理事部長の任期何年という事を討究の末ほぼ決定しました。
底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
1929(昭和4)年1月刊
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2006年12月22日作成
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