美術会という。そして長い間それが続いたのでありました。
会員の中には私がこれからお話しようと思っている石川|光明《こうめい》、旭玉山《あさひぎょくざん》、金田兼次郎、島村|俊明《としあき》の諸氏、蒔絵師では白山|松哉《まつや》などもいて、会はますます旺《さか》んとなり観古美術会を開くことになったのでありました。
観古美術会はさらに一歩進んだ形のもので、会員所蔵の逸品といっても数限りのあること故、一般に上流諸家から秘蔵品並びに宮内省|御物《ぎょぶつ》等をも拝借し、各種にわたった名画名器等を陳列し、それを一般に縦覧を許すことにしました。そうして、宮様を総裁に頂きまして、歴とした会が成立したのであった。
会場は下谷の海禅寺《かいぜんじ》(合羽橋《かっぱばし》側)、東本願寺等であった。この会は二、三回続きましたが、美術思想を一般に普及した功は多大でありました。
こんな有様で、竜池会から出た日本美術協会の年中行事として観古美術会の会員はますます殖《ふ》え、大分工人側の人たちも這入《はい》って来たのでありますから、会員の意見の交換などしばしばある中に、従来の如く、単に古いものばかりを出陳するということよりも、さらに新奇なものを加えて出陳してはどうか。彫刻、絵画、蒔絵、彫金等の名家も多いこと故、この人々自ら製作して、それを出したら一層おもしろかろう。そうして古人の作は参考品としたら、さらに興味が深いであろうという議が起りまして、それが決まると、早速|築地《つきじ》本願寺で開会することになった。これがすなわち美術協会の新古展覧会の第一回で、明治十七年のことでありました。その時私は白檀《びゃくだん》で蝦蟇仙人《がませんにん》を彫って出品しました。
私の製作を自分の名で世間へ発表したそもそもの初めです。私はその時三等賞を貰いました。
ところが、私は、実の所、日本美術協会というものの存在さえも知らなかったのです。明治十三年頃から竜池会というものがあり、それが発展して今日美術協会というものが出来ているなどいうことを一切知らなかった。ですから、どういう人たちがどんなことを話したり、論じたりしているかなどは知ろうようもない。私は毎度申す通り、ただこつこつと仕事をしていたのである。それほど何も世間のことを知らなかった私が、どうして日本美術協会のあることを知り、また出品したかというと、それは、石川光明という牙彫《げぼ》りの名人で、当時既に牙彫りでは日本で一、二を争う人となっていた人であったのです。
光明氏は私と同年輩の人、人格は申すまでもなく、風采も至って上品で、さすがに一技に優《すぐ》れた人ほどあって見上げたところのある人であった。後年美術学校教授を奉職し私とは同僚となりました。
私は光明氏に勧められて美術協会に出品したのが縁となって、石川氏との交際はいよいよ親しくなりまた同会とも接近して行くようになった。亜《つ》いで会員となることをも勧められましたが、とてもまだ会員になる資格はないと辞退をしましたけれども、会頭の佐野氏からもいろいろ御言葉があり、或る時は、同氏のお宅へ招待され、大層歓待を受けた上に、また入会のことを勧められたりしましたので、私もついに会員の末席を汚すようなことになりました。
この時から私はいろいろの人の顔も知り、また当時の美術界に重きを為《な》せる人々の所説をも聞き、明治十三年以降その当時に及んでいる斯界《しかい》の趨勢《すうせい》の大略をも知ることが出来、また、その現在の有様をも了解することが出来たようなわけで、ここで私は一遍に世間を眺め、一どきに眼を開いたような感を致しました。
今日までは実に眼の前に黒い幕が引かれていたようなもので、この時一時にそれが取れたという感じでありました。
底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
1929(昭和4)年1月刊
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2006年12月22日作成
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