で抛《なげう》って置いてある。商売用の葛籠《つづら》の蓋《ふた》を引っくり返して、その中へ銭をバラで抛《ほう》り込んで置く。そんな投げやりなことをして好《い》いのかと私は心配をして父に注意すると、
「何、これが一番だ。入れ物などに入れて置いては、際《すき》をねらって掠《さら》って行かれてしまう、こうして置けば奪《と》ろうたって奪れやしない」
と、自分の経験を話したりして、なかなか巧者なものである。師匠の店で彫り物ばかりしている私にはなかなか珍しく感じました。
さて、夜が明けて当日になると、昼間《ひるま》はなかなか声が出せない。黙って店にぼんやりしているようなことではいけないので、何んでも縁喜で、威勢がよくなくっちゃならないのですから、呼び声を立てないといけない。それがなかなか私などには出来ません。
しかし、何時《いつ》までも迷惑な顔をしておどおどしていれば何時まで経っても声は出ない。思い切ってやればやれるものでこういう処へ出れば、また自然その気になるものか、半日もやっていると、そういうことも平気になるのはおかしなものです。
当日の夜はまた一層の人出で、八時から九時頃にかけて出盛《でざか》る。今日のように社の前を電車が通ってはおりません。両方がずっと田圃で、田の畷《あぜ》を伝って、畷とも道ともつかない小逕《こみち》を無数の人影がうようよしている。田圃の中には燈火《あかり》が万燈《まんどう》のように明るく点《とも》っている。平生《ふだん》寂寥の田の中が急に賑わい盛るので、その夜景は不思議なものに見える。時候も今日のように冬に入る初めでなく、陰暦の十一月ですから、筑波颪《つくばおろし》がまともに吹いて来て震え上がるほど寒い。その寒さを何とも思わず、群衆はこね返している。商売人の方はなおさら、此所《ここ》を先途《せんど》と職を張って景気を附けているのです。
しかし、札附きの商売人になると、決して売ることを急がない。なかなか落ち付いたもので、店番の手伝いに任せ、主人はぶらり一帯の景気を見て歩き、そうして、今度の市の相場を視察している。今夜は、八寸から一尺までがよく出るとか、ちゃんと目星をつける。そうして売れる方の側のものは仕舞い込んでしまう。ちょうど、素人《しろと》のすることと反対のことをしている。そうして、売れ向きの悪い方から売って行って、それが売り切れになると、売れる方のを三本か四本位出して、蝋燭四本の物なら二本へらして薄ぐらくして置く、すると買い手の方は要求しているものが其所にあるから、値を聞く。売り手は他店にもう品切れと踏んでいるから、吹っ掛けて出る。一声負けたところで、利分は充分。それに商売がしやすいのであります。そうして売れないものは無理に売ろうとせず、二の鳥を俟《ま》ち、三の酉があればそれをも俟つという風で、決して素人のように売り急ぎをしないのだそうであります。際《きわ》どいのは、もの仕舞い際になると、蝋燭(薩摩《さつま》ろうそく)やカンテラを消して店を方附け、たった一本位出して置いて、客がつくと、それを売る。もうないのかと思うと、もう一本ある。他の客が奪うようにして買って行く。段々とそうして余分に儲けるなどなかなかその懸引《かけひき》があるものだといいます。けれど、こっちはそこまではやれない。この商売はほんの駈け出しだから、何んでもかまわず早く売りたくて仕方がなかったものでした。
私たちの店は今も申す通り、大きい店の袖にあった跳《は》ね出しの店です。この方が割方《わりかた》安くてかえって都合がよろしい。大分、もう売って行ってほとんど出盛りのテッペンと思う頃、仕事をしに入り込んでいた攫徒《すり》の連中が、ちょうど私たちの店の前で喧嘩《けんか》を始めた。これは馴《な》れ合い喧嘩というので、その混雑の中で、懐中を抜くとか、売り溜《だ》めを奪《と》ろうとかするのです。それ喧嘩だというと、大勢が崩《くず》れて、私たちの跳ね出し店の手欄《てすり》を被り、店ぐるみ葭簀張《よしずば》りを打ち抜いて、どうと背後《うしろ》まで崩れ込んで行ったものです。ところが、背後は池の半分|跳《は》ね出しだから、池の中へ群衆はひと溜まりもなく陥《お》ち込んでしまった。
私はちょっと用を足しに他《わき》へ行っていたのでしたが、帰って見ると、店は粉微塵《こなみじん》になっている。池へ落ちた群衆が溝渠鼠《どぶねずみ》のようになって這《は》い上がって、寒さに震えている。父は散らばった熊手を方附けている処でしたが、容子《ようす》を聞くと、スリが馴れ合い喧嘩をしたのだという。よく、池にも落ちず、怪我《けが》もしなかったことを私は安心しましたが、父はこんな突発的な場合にも素早く、馴れたものでそれというと、葛籠《つづら》の中の売り溜《だ》めを脇に挟《はさ》
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