縁先へ立てて見せる。なるほど、自然の色を持った若葦の浅緑の生々《いきいき》した葉裏などにその夏虫のとまっている所は、いかにもおもしろい。異《おつ》でもあり、妙でもあって、とても、市中の玩具屋《おもちゃや》を探して歩いてもある品でない。この妙な思い附きが一つの趣向で老人はすっかり好い気持になって、それを持って、彼岸の人出する場所、あるいは六|阿弥陀《あみだ》のような所へぶらぶらと行って見るのであります。時候はよし、四方の景色《けいしょく》はよし、木蔭《こかげ》の石灯籠《いしどうろう》の傍などに、今の玩具を置いて其所《そこ》に腰打ち掛けて一服やっている。通り掛かりの参詣《さんけい》仲間の人たちが、ふと目を附け、これは異《おつ》だ、妙だといってる中に、何んとなく好奇心にそそられて、その赤蜻蛉のを私に一本、その蝶々のを私に二本というように、つい興がって買う気になるのです。こうなると老人の得意はさぞかし、手間は相応掛かっても、元が掛からない手細工ですから、幾金《いくら》にしても儲けはある。二時間、三時間、気の向いた道を景色を眺めて散歩している間に幾金《いくら》かのお小遣いが取れるのであります。

 老人は日暮れ近くになって、ぶらぶらと帰って来られる。取れた儲けの中から、お土産《みやげ》などを買って……手間と元手も実はもうそのお土産になってしまうこともあるが、それでも老人は万と儲けたような気分、「今日はなかなかおもしろかった」といって罪なく笑壺《えつぼ》に入っている所はまことに人の好いもので、私たち夫婦は、つい貰い笑いをして、
「お父さん、折角儲けたのをみんなお土産にしてしまってはお気の毒ですね。それでは商売にならないでしょう」
などいうと、
「何、先方が馬鹿に俺《おれ》の趣向をおもしろがって買ってくれるんだ。儲けなくても、それだけでも気保養だのに、こんなお土産が買えて、まだ少し位残った所などは感心じゃないか」
など、何処までもお人柄な隠居気質。こういうところは、生馬《いきうま》の目を抜くような江戸の真ん中で若い時から苦労ずくめの商売をした人のようでもなく、どうかすれば歌俳諧でもやるような塩梅《あんばい》でありました。それに、おかしいのは、老人のこの新案の葦のおもちゃ[#「おもちゃ」に傍点]は極《ごく》日中はいけないのでした。薄曇った日とか、朝夕位のところでないと、葦の若葉がしおれるので、ほんの瞬間の生々した気分を売り物にするという、まことに妙な玩具でありました。
 老人はまた思い附くと何んでも拵えました。大山《おおやま》登山の行者《ぎょうじゃ》などはお得意のものであった。行者を白い紙で拵え、山を、小さな、芝居の岩山のようなものにして、登山のさまを見るようにこしらえました。指先が利《き》くので、一片の紙の片ッ端でも、この人の手に掛かると不思議に生きて来たのであります。結局《つまり》自分の感じたおもしろ味を、文字でなく、物の形にして、それを即興的に現わしたもので、当座の興でありましたが、まだその頃にはこうした趣味をよろこぶ人が多少ともあったものでありました。



底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
   1929(昭和4)年1月刊
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2006年9月8日作成
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