って、それが型となって、貿易向きのマッチ入れとか、灰皿とか、葉巻入れ、布巾輪《ふきんわ》、たばこ差し、紙切り、砂糖|挟《ばさ》み、時計枠など、いろいろ外国向きの物品を作るのだが、それを一つあなたの意匠を凝らし、絵師の手を借りずに、ジカ附《づ》けに彫って頂こう。そうする方が出来が生きて面白く、同じ金属で打ち出したものでも値打ちがあるというもの、一つ自由に腕を振《ふる》って見て下さい」という注文、そこで、いろいろな用途の器物の見本を見ると、なかなか興味があります。私もこうした新しい試みには以前から気があるのであるから、
「では、どういうものが出来るか、一つ行《や》って見ましょう」
と、引き受けて帰りました。
 私の仕事はやはり金型《かながた》をヘコサ[#「ヘコサ」に傍点]に彫《ほ》る工人の手本になるので、その意匠を考え考えして種々な用途の器具の内面または外側に、旨《うま》く意匠づけたものを彫るのであるから、なかなか仕事に骨は折れますが張り合いがある。自分の意匠づけた一つの型が原《もと》になって幾万の数が出来て、それが外国へ行くということも考えようによっては面白くもある。そんなような訳で、私はこの仕事を三河屋から請け負い四、五年間も続けてやりました。
 それで、生活の方も豊かではないが困るということはなく、まず研究かたがた、ゆっくりと腰を据《す》えてやっておりました。ちょうど、明治十六年頃までこの仕事を続けておりました。その頃三幸の支配人で、現今|湯島天神《ゆしまてんじん》町一丁目におられる草刈豊太郎《くさかりとよたろう》氏には色々御世話になりました。
 かれこれしている中に、内地向きの仕事もぽつぽつあるようになりました。また、私の彫刻の技倆もどうやら世間でも見てくれるようになり、生計の方においても順調の方へ向いて行くような有様となったのであります。で、思うに、明治八、九年から十五、六年頃までの七、八年間は、私に取っては実際経験によって修業の出来た時代で、生活そのものは苦境であったが、個人としての内容を豊富にするにはまことに適当の時代であったのでありました。



底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
   1929(昭和4)年1月刊
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko sai
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
高村 光雲 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング