ある。
「ハハア、とうとうやって来たな」と私は思いました。
 所へ、沢田の主人が来た。
「この象牙は熨斗《のし》を附けて差し上げます……」
という前置きで、沢田氏のいうには、
「今日は是非一つ象牙を試みて頂きたく出ましたわけで、かねがね申し上げたが御承知のない処を見ると、象牙に経験がないから謙遜《けんそん》してのお断わりかと思いますが、この材を差し上げることにしまして、彫って御覧になり、思うように行かなくても、御自分の材なら御心配はない。何んなりとお試《ため》しに勝手に彫って下さい。そうしてお気に入ったものが出来ましたら、手前の方へお廻し下さい。すると、手前の方では、象牙の値と、手間とを差し上げます。そうすれば、あなたにも御面倒がなく気楽に仕事が出来るわけ、また私の方でも甚《はなは》だ好都合……実はこういう考えで上がりましたが、是非一つこの象牙を貰って頂きたいものです」
という口上、これには私も沢田氏の行き届いた親切を感謝しないわけには行きませんが、しかし私としては、そうはいっていられない。ここはキッパリするに限ると思い、
「御親切なお言葉甚だ有難く存じますが、実は、私が象牙を手掛けないことには趣意がありますことです。かねて師匠から小刀を譲られて、今さら、今日に及び生計《たずき》のためと申して、その家業の木彫りを棄《す》てて牙彫りをやるというわけには参りません。打ち開《あ》けたお話をすれば、全く、私は、象牙を嫌《いや》なんです。イヤなのです。どうか、私の趣意をお察し下すって、こればかりは他の方へお廻しを願いたい。このお持ちの象牙も今晩私が担《かつ》いでお届け致しますから、その辺、どうか、悪《あ》しからず……」
 こういう意味で私はキッパリと謝絶《ことわり》ました。すると沢田氏という人も理《わけ》のわかった人とて、
「なるほど、さようでありますか、今日まで、あなたが象牙をお手掛けなさらんことについては半信半疑でありましたから、実は今日のようなことを申し出たわけであります。が、只今《ただいま》、お話を承って能《よ》く了解しました。では、象牙のことは今日限り打ち切りまして、やっぱり従前通り、木彫りの方をお願い致しましょう」
と、よく要領を得た答えに私もよろこび、その後相変らず沢田氏の注文で二、三回も木彫りの仕事をしたことがありました。実に沢田銀次郎という老人は商人には珍しい好人物で、誠に親切なお方でありました。なかなか長命で四、五年前までお健者《たっしゃ》でした。



底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
   1929(昭和4)年1月刊
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2006年9月8日作成
青空文庫作成ファイル:
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