とにして頂こう」
と大島老人はいう。
 私に取って一両二分などいう給料は従来の二十匁に比してどんなに結構か知れません。しかし、そんなに貰っては多過ぎますので、私は散々辞退をし押し問答の末、私から一両に決めてもらい、その代り、夜業は自分の随意ということにしました。
 この大島高次郎という人は、若い時から草鞋穿《わらじば》きで叩《たた》き上げたほどな人ですから、なかなか確《しっ》かりした人物でありました。そして能《よ》く私のことを心配をしてくれ、私もまた同氏のためには心から尽くしたので、博覧会が終《す》んでも、まだ暇が貰えず、やはり、二年越し此所《ここ》へ勤めていたのでした。

 しかるに、或る時、十四日勘定の給料を受け取り、その晩家に帰りまして、翌十五日は休日|故《ゆえ》、家にいて、ふと道具箱の小刀の抽斗《ひきだし》を開《あ》けて見ました。
 すると、驚いたことには小刀が悉皆《すっかり》赤錆《あかさび》になっております。これを見た時、私は何ともいえない慚愧《ざんき》悔恨の念が胸にこみ上げて来ました。
 私は、暫く、その錆だらけの小刀を見詰めておった。胸に「アア、これは、大変なことをしてしまった」という思いが一杯になって、自分の所業を愧《は》ずかしく感じ、孔《あな》へも入りたく思ったのである。自分は相当の給料を貰い、まず心安くその日の生計《くらし》をば立て行くことの出来るは結構なれども、そういうことのために師匠譲りの木彫りを粗略にし、二年間も小刀の手入れをせず、打《う》っ棄《ちゃ》って置いたということは何とも済まない。これはこうしてはいられない。自分は元の道に帰って木彫りを再びやらなければならん。とこう決心しますと、もう矢も楯《たて》もたまらず、直ちに大島氏の家に行って、右の趣を述べ、大島老人は物の能く分る人|故《ゆえ》、引き留めもせず、誠に御尤《ごもっとも》だといって機嫌《きげん》よく暇をもらい、家に帰って小刀を磨《と》ぎはじめたことであった。



底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
   1929(昭和4)年1月刊
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2006年9月8日作成
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