どうも面白からず思いましたので、これはこの辺にて、もはや見切りを附けるところか。今日《こんにち》まで独立を思い立っても、義理にからまれ、それも思うに任せなんだが、もはや年《ねん》が明けて六年の歳月をいささか師匠にも尽くしたと思うこともあるによって、今日、この場合、自分が身を引いたとあっても道にはずれたことでもあるまい。どうやら、自分の独立する時機が自然と来たのかも知れぬ。また、一方から考えると、自分というものが師匠没後の事に当っていればこそ、政吉も当面に立って充分に働きを見せぬが、自分が身を引けば、彼は立って働くに相違ない。自分が未亡人と政吉と頭の上に二人人間があって仕事のしにくいと同じように、政吉とても、自分があっては、やっぱり同様の感があるであろう。これは政吉を表面に立たせて働かすこそかえって目下《もっか》のためであろう。――こう私は考えました。
この事は誰にも相談したのではなく、自分でかく決心して身を退《ひ》く覚悟をきめたのでありましたが、さりながら、足元から鳥の立つよう、今日からお暇を頂くというのも余りいい出しにくく、月に半月ずつの暇を貰いたいことを申し出ました。すると、未亡人は、では、そうしてもらいましょうと、別に私を引き止めもしませんから、なるほど、これなれば身を引くにもかえって好都合と、それから十日のものが七日、五日と段々足が遠のくにつれて、こちらはますます入れ子の人間となり、政吉は、果して、まず立派に店のことをやって行くようになりましたから、今は、もう、すべてを政吉に譲るべきであると思い、清く私の身を引いたことでありました。
政吉は後年ずっと師匠没後の家におり、その二階で病死したのでありました。
さて私のその後のことについては、ここで初めて師匠の家を離れ、独立することになるのであるから、私の境遇はまた一段と形が変って来るわけであります。
私は、その頃は、堀田原の家を移って森下へ抜ける寿町へ一軒の家を借り其所《そこ》におりました。堀田原の家は師匠在生中、蔵前に移ったにつき、同所は火堅《ひがた》い所|故《ゆえ》、別段立ち退《の》き用心の家も不必要の所から堀田原の家は売られましたので、私は寿町へ転じました。
堀田原の家で私の総領娘|咲子《さくこ》が生まれました。それは明治十年九月五日であった。
寿町時代は翌十一年頃のこと。それから浅草小島町へ、次は下谷《したや》西町《にしまち》に移りました。
師匠没後養母お悦さんは心細いことと思い私は出来るだけ気を附けておりましたが、明治三十二年八月十九日、七十九歳の長命でおきせさんの家で没しました。
底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
1929(昭和4)年1月刊
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2006年9月8日作成
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