いが、まず、のましたつもりにして婆さまのいう通りに薬をやめさせた。二日間薬をやめたのであった。
と、その少し前、眼鏡屋の主人がぽっくり死んでしまった。古川医師は、どうも可怪《おか》しい、不思議なこともあるものと首を傾けていると、こちらの師匠の容態が、また危機に迫ったというので、診断して見ると、これはどうも大変なことになっている。これはいけない。これは最早《もはや》扶《たす》からない。しかし、今日《こんにち》までの経過は、こう迅《はや》く迫って来べきでないが、何か、どうかしたのではないか。何らか特別の手落ちがなくてはこうなるはずはないと問い掛けられて、奥の人たちは今さら隠すわけにも行かず、実はこれこれでと右の婆さんの一条を話し、薬は二日休んだと有体《ありてい》に申しました。古川医師は、もはや、自分の匙《さじ》の用い処もないと嘆息する。一同も途方に暮れ、手の出しようもないのでありましたが、その夜十時頃、師匠東雲師はついに永眠されたのでありました。それは、明治十二年九月二十三日の午後十時、師匠は、享年五十四でありました。
法名は、光岳院法誉東雲居士、墓は下谷区|入谷《いりや》町静蓮寺にございます。
これより先、師匠の病《やまい》篤《あつ》しと聞き、彼の亀岡甚造氏には見舞いに来られました。この人は平生《ふだん》でも手に数珠《じゅず》を掛けている人であったが、師匠の病床に通って、じっと容態を見ておられたが、やや暫くの後、その場を去り、他《わき》へ私を招き、ただならぬ顔色にて申すには、
「幸吉さん、今日、師匠の容態を見るに、もはや、余命も今日《こんにち》限りと私は思う。とても明日までは持たれまいと思う。それで今夜はお前もその覚悟でおらねばならぬことと私は思うが、不幸にして、そういう場合に立ち至ったなら、どうか、遠慮なく、私の番頭をこちらへ招き、お前の相談相手として万事|宜《よろ》しく頼みます。それで、私は明日また出直して参るが、番頭のことは遠慮なくやって下さい」
こういい置き帰って行かれました。私はまさかとは思いましたが、果してこの亀岡氏のいった如く、師匠はその晩不帰の客となられたのでありました。
亀岡氏の番頭さんというのは、師匠の家の隣りの袖蔵の側の霧路《ろじ》に亀岡氏の別邸があって、其所《そこ》に留守居のようにして住まっていた人でありました。で、師匠の気息《いき》
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