して、何んとか、もう一度癒してやりたいといっておられます。
この亀岡甚造という方は、その頃もはや年輩も六十以上の人で、当時は御用たし[#「たし」に傍点]のようなことをしておられた有福《ゆうふく》な人でありました。若い時、彼《か》のペルリの渡来時分、お台場《だいば》の工事を引き受け、産を造ったのだそうで、この亀岡氏は先代の目がねによって亀岡家へ養子になったなかなか立派な人でありました。師匠とは気心も大変合っていて、内輪のことなどまで心配をされました。また同氏は私にもなかなかよくしてくれました。で、亀岡氏はじめ、我々、皆一同師匠の病気平癒を神仏かけて祈りましたが、どうも重くなるばかりであります。医師に見せてもなかなか捗々《はかばか》しく参らず、そこで、私は先年傷寒を病んだ時に掛かった柳橋の古川という医師が、漢法医であるけれども名医であると信じていましたから、師匠の妻君へ、この人に診《み》てもらうよう話をしました。妻君も、それではと古川医師に診察を頼みますと、どうも、これは容易でない。脚気とはいっても、非常に質《たち》が悪い。気を附けねばならんという診断。医者の紋切形《もんきりがた》とは思われぬ。重大な容態は我々素人にもそう思われるようになったのであります。
それで、弟子は四人ありますが、店の方の仕事のことがありますので、昼の中《うち》は附いておられず、奥の方では皆が附き切りになっている。師匠の家は親戚《しんせき》はない。一家内師匠をのけてはすべてが婦人で、妻君、お悦さん、お勝さん、それからおきせさんとこの四人が附き添い看護をしておられるので、私は、いろいろ師匠の病気についての看護のことに心附いたことがあっても、そう深く奥のことにまで立ち入って行くわけにも行きませんから、ただ、ひたすら、師匠の病気の少しにてもよろしくなることを祈っている次第であった。
しかるにここに師匠の家の筋向うに眼鏡屋があって、その主人がちょうど師匠と同じような脚気に罹って寝ていました。近所ずからのこと、また同病のことで、何かと奥の人たちと往復して、平生《ふだん》よりもまた近しくなった処、眼鏡屋の妻君のいうには、私の宅でも柳橋の古川さんに掛かっておりますが、どうも、さらに験《げん》が見えません処を見ると、あのお医者は籔《やぶ》の方ではありますまいかなどいう。こちらでも、どうも、ますます重《おも
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