れの場所へ出すものだということだからなかなか気が張ります。師匠の言葉もあることで、腕限りやるつもりで引き受けて、いよいよその製作に取り掛かったのであった。

 その白衣観音は今日から考えても別段目先の変ったものではなく、従来の型の如く観音は置き物にするように製作《こしら》えましたが、厨子《ずし》などは六角形塗り箔で、六方へ瓔珞《ようらく》を下げて、押し出しはなかなか立派であった。それでその売価はというと、これが不思議な位のことで、観音は大きさが一尺で、材は白檀《びゃくだん》、充分に手間をかけた念入りの作。厨子はこれまた腕一杯に作ってある。それで売価七十円というのであった。今日では箱だけ樅《もみ》で拵《こしら》えてもそれ位の代価は掛かるかも分りませんが、何しろ一ヶ月その仕事に掛かり切っていても、手間は七円五十銭という時代であるから、自然そういう売価が附けられたことと思われます。とにかくお話しにならぬほど安いものでありました。
 さて、博覧会は立派に上野で開会されました。博覧会がどんなものかということを一切知らなかったその頃の社会では多大の驚きであったことですが、これらのことについての話はまた他日に譲るとしまして、とにかく、博覧会も滞りなく半ば過ぎた頃、或る日、当会から師匠の許へ呼び出しが来ました。それは何時《いつ》何日《いつか》に出陳の品に賞が附いて、その賞牌の授与式があるのだということです。しかし、師匠、私なども、賞が附くというようなことを一向知らぬ。ただ、拵えたものを出して置いただけのものであったが、師匠は呼び出しが来たので、当日は袴羽織で(師匠の家の紋は三《み》ツ柏《がしわ》であった)上野の会場へ出掛けて行きました。授与式がどういう有様であったかは私は知る由もないが、受けた賞牌は竜紋《りゅうもん》賞であった。ところが、またその竜紋賞が好いのか悪いのかも師匠は知らない。くれるものを貰って来たという有様であった。

 当日は、私は何かの都合であったか堀田原《ほったわら》の家に休んでおりました。日暮れ少し前頃に、私の家の表の這入《はい》り口に地主の岡田というのがあって、その次男が私の宅へ飛び込んで来て、突如《だしぬけ》に、
「高村さん、あなたはえらい[#「えらい」に傍点]ことをやったね」
と頓狂《とんきょう》な声でいいますので、私はびっくりして、
「何を私がやったんで
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