。第一、母の面倒を見て手助けとなることが一番の大事な役目であるから、その注文にはまったものが、其所《そこ》らにあろうとも思えず、また自分の取り前も考え、境遇を考えなどすると、全く配偶者のことなど脳中に置くがものはなかったのであった。
ところが、その中《うち》に、ふと、一つの話があった。江戸彫刻師の随一人といわれた彼《か》の高橋鳳雲の息子に高橋定次郎《たかはしていじろう》という人があって(この人は当時は研師《とぎし》であった。後《のち》に至って私はこの人と始終往復して死んだ後のことまで世話をした)、その妹にお清という婦人があった。師匠はこの婦人をどうかと私に相談をしました。高橋家は彫刻師としては名家であり、定次郎氏は私とは年来の知己で、性情|伎倆《ぎりょう》ともに尊敬している人である。その人の妹娘というのであるから、私もむげ[#「むげ」に傍点]に嫌というわけにも行かない。が、前申す通り境遇上、まだ妻を娶《めと》るに好都合という時機へも来ていないのであるから、私は生返辞《なまへんじ》をしていた。定次郎氏の家は神田|富山《とみやま》町にあって、私も折々同氏を訪問し、妹の人とも顔は見知っている。器量も気立ても好《よ》かりそうだなど自分も考え、明らさまに断わりをいうわけにも行かず、有耶無耶《うやむや》の間に日が経《た》っております中に、その娘の人は、計らず、ふとした病気で亡くなってしまいました。
その年は暮れ、明けて明治八年、私は二十四となる。
半年ばかり、一時結婚談も中絶していましたが、またその話が持ち上がる。同時に、私として、どうも、家内を迎えなくてはならないようなことになって来ました。
これは今まで、大分弱っておられた母が、ドッと臥床《とこ》に就《つ》くというほどではないが、大変に気息《いき》切れがして、狭い家の中を掃くのさえ、中腰になって、せいせいといい、よほど苦しいような塩梅《あんばい》である。私は、どうも、これはいけないと思い、何んとかせんければと心を痛めました。まず、何よりも滋養分を沢山差し上げるがよろしいと思い、その頃、厩橋側《うまやばしそば》に富士屋という肉屋があって、其所《そこ》の牛肉が上等だというので、時々|牝牛《めうし》の好いのを一斤ずつ買って母へ持って行って呈《あ》げました。その頃、私は師匠の家に寝泊まりしていた。当時は肉の佳《よ》いのは牝
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