となりました。すなわち明治七年の三月十日で文久三年の三月十日に師匠へ弟子入りをしてから正に丸十一年で(礼奉公が一年)年明けすなわち今日の卒業をしたのでありました。
で、師匠も大きにこれを喜んでくれられ、当日は赤飯を炊《た》き、肴《さかな》を買って私のために祝ってくれられ、私の親たちをも招かれました。その時父兼松は都合あって参りませんでしたが、母が参り、師匠の前で御馳走になりました。その時師匠は改めて私に向い、将来について一つの訓戒をお話しであった。
「まず、とにかく、お前も十一年というものは、無事に勤めた。さて、これよりは一本立ちで独立することとなれば、また万事につけて趣が異《ちが》って来る。それに附けていうことは、何よりも気を許してはならんということである。年季が明けたからといって、俺《おれ》はもう一人前の彫刻師となったと思うてはいかぬ。今日まではまず彫刻一通りの順序を習い覚えたと思え。これからは古人の名作なり、また新しい今日の名人上手の人たちのものについて充分研究を致し、自分の思う所によっていろいろと工夫し、そうして自分の作をせねばならぬ。それにつけて、将来技術家として世に立つには少時《しばらく》も心を油断してはならぬ。油断は大敵で、油断をすれば退歩をする。また慢心してはならん。心が驕《おご》れば必ず技術は上達せぬ。反対に下がる。されば、心を締め気を許さず、謙《へりくだ》って勉強をすれば、仕事は段々と上がって行く。また、自分が彫刻を覚え、一人前になったからといって、それで好いとはいわれぬ。自分が一家を為《な》せば、また弟子をも丹精して、種子《たね》を蒔《ま》いて、自分の道を伝える所の候補者をこしらえよ。そして、立派な人物を自分の後に残すことをも考えなくてはならぬ。お前の身の上についてはさらにいうこともないが、これだけは技術のために特に話し置く」
こう東雲師は諄々《じゅんじゅん》と私に向って申されました。私は、いかにも御もっとものお話|故《ゆえ》、必ず師匠のお言葉を守って今後とも勉強致します旨を答えました。
すると、師匠は、至極満足の体でいられたが、さらに言葉を継ぎ、
「お前の名前のことについてであるが、今後はお前も一人前となることゆえ、名前が幸吉《こうきち》ではいけない。彫刻師として彫刻の号を附けねばならぬ。ついては、お前の幼名が光蔵《みつぞう》というから
前へ
次へ
全4ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
高村 光雲 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング