上る)。続いて父も屋根に上り、さらに網戸を大神宮の拝殿へ掛け渡して逃げ道を作りました。
「さあ、これで、もう、大丈夫だ。此所で一気息《ひといき》吐《つ》こうじゃないか」
父はさも安堵《あんど》したような顔をして私を見ながらいいました。私は、父の声を聞きながら、荷物の番をしていた万年屋の方を向いて見ました。すると、万年屋の二階の雨戸が二、三枚、朱《あけ》に染まった虚空《こくう》の中へ、紙片《かみきれ》か何んぞのようにひらひらと舞い上がりました。と、雨戸のはずれた中から真黒の烟《けむり》がどっと出る。かと思うと、今度は真紅の焔《ほのお》が渦を巻いて吹き出しました。
「お父《とっ》さん。万年屋が……」
と、いっているうち、見る見る一面の火となってしまいました。
私はこの時仕事師のいった言葉を思い出し、もう少しぐつぐつしていようものなら……と思わず身体が震えました。
私たちは、床店の屋根の上で、暫く火事の様子を見ていました。急に安心をした故《せい》か、この時初めて恐ろしい風だということに気が附きました。それまでは全く夢中でした。
それから、今日《こんにち》でもハッキリ記憶をしておりますが、万年屋の前で荷物の番をしている時、持ち出してある大酒樽《おおさかだる》の飲み口が抜けて、ドンドンと酒が溢《あふ》れ出る。その酒のしぶき[#「しぶき」に傍点]が私の衣物《きもの》をびっしょりにしてしまいました。私は濡《ぬ》れたままで、仕事師に突き出され、人波に揉まれ、父に扶《たす》けられ、今、この床店の屋根に上って、父の傍で、師匠の荷物も何もかも火の海と化し去る所を見ているのでありますが、万年屋、山城屋(菜飯屋)などの火焔の煽りで熱くなって、その酒に濡れた衣物が乾いて、烟《けむ》が出ているのに気が附きました。乾きかけた袂《たもと》からは酒臭い匂《にお》いが発散《たっ》ていました。
そうして、火は私たちの上っている屋根の前を一面に舐《な》めて、花川戸の方へ焼け延びて行きました。
やがて、父と私とは、家へ帰ることにしました。帰るといって私の師匠の家はもう焼失してしまっていますから、父の家へ帰るよりほかありません。網戸を伝って拝殿へ這い上り、其所からまた網戸を梯子《はしご》にして大神宮様の敷き石の上へ降りました。
父は始終私の身辺を気遣い、わが身のことは忘れたかのように劬《いた》
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