像となったものとか、今でも祠《ほこら》の格子《こうし》に多くの文が附けられてある。
 雷門から仁王門までの、今日の仲店《なかみせ》の通りは、その頃は極《ごく》粗末な床店《とこみせ》でした。屋根が揚げ卸しの出来るようになっており、縁と、脚がくるり[#「くるり」に傍点]になって揚げ縁になっていたもので、平日は、六ツ(午後六時)を打つと、観音堂を閉扉《へいひ》するから商人は店を畳んで帰ってしまう。後《あと》はひっそりと淋しい位のものでした。両側は玩具屋《おもちゃや》が七分通り(浅草人形といって、土でひねって彩色したもの、これは名物であった)、絵草紙、小間物《こまもの》、はじけ豆、紅梅焼、雷おこし(これは雷門下にあった)など、仁王門下には五家宝《ごかぼう》という菓子、雷門前の大道には「飛んだりはねたり」のおもちゃを売っていた。蛇《じゃ》の目《め》の傘《がさ》がはねて、助六《すけろく》が出るなど、江戸気分なもの、その頃のおもちゃにはなかなか暢気《のんき》なところがありました。
 雷門は有名ほど立派なものではなく、平屋の切妻《きりづま》作りで、片方が六本、片方が六本の柱があり、中心の柱が屋根を支《ささ》え、前には金剛矢来《こんごうやらい》があり、台坐の岩に雲があって、向って右に雷神、左に風の神が立っていました。魚がしとかしんばとか書いた紅《あか》い大きな提灯《ちょうちん》が下がって何んとなく一種の情趣があった。
 仁王門は楼門です。楼上には釈迦に十六羅漢があるはず。楼下の左右には金剛力士の像が立っている。
 仲店の中間、左側が伝法院で、これは浅草寺の本坊である。庭がなかなか立派で、この構えを出ると、直ぐ裏は、もう田圃で、左側は田原町の後ろになっており、蛇骨湯《じゃこつゆ》という湯屋があった。井戸を掘った時大蛇の頭が出たとやらでこの名を附けたとか。有名な湯屋です。後ろの方はその頃|新畑町《しんはたまち》といった所、それからまた田圃であった。
 伝法院の庭を抜け、田圃の間の畔道《あぜみち》を真直に行くと(右側の田圃が今の六区一帯に当る)、伝法院の西門に出る。その出口に江戸|侠客《きょうかく》の随一といわれた新門辰五郎《しんもんたつごろう》がいました。右に折れた道が弘隆寺、清正公《せいしょうこう》のある寺の通りです。それから一帯吉原田圃で、この方に太郎稲荷(この社は筑後《ちくご》柳川《やながわ》立花《たちばな》家の下屋敷内にある)の藪が見え、西は入谷田圃に続いて大鷲《おおとり》神社が見え、大音寺前《だいおんじまえ》の方へ、吉原堤に聯絡《れんらく》する。この辺が例のおはぐろどぶ[#「おはぐろどぶ」に傍点]のあるところ……すべて、ばくばくたる水田で人家といってはありませんでした。
 ざっと略図のようなものでいうと、こんな風な地形となる。
[#雷門付近の地図(fig45964_01.png)入る]



底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
   1929(昭和4)年1月刊
入力:網迫、土屋隆
校正:しだひろし
2006年2月14日作成
2006年6月21日修正
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