往来広く空ッ風の強い日などは塵埃《ほこり》が甚《ひど》くて、とても仕事が出来ないという有様なので、転居したのです。
 まだ、その頃は硝子《ガラス》戸を入れる時代になっておりませんから、何処《どこ》でも塵埃のためには困らされました(その頃、タシカ、神田のお玉ヶ池の佐羽という唐物屋《とうぶつや》がたった一軒硝子戸を入れていたもので、なかなか評判でありました。硝子器の壜《びん》は「ふらそこ」といって、桐《きり》の二重箱へなど入れて大切にした時代です)。私が東雲師の家《うち》に行ったのは、この諏訪町移転後三、四年のことだと思います。
 店には私より以前に二人の弟子がいた。三枝松政吉《みえまつまさきち》と、覚太郎というものであった。二人とも、もはや相当に腕も出来てきた所から、もう一人小僧が欲しいというような訳で、例の床屋の安さんへ弟子を頼んだのが計らず私が行くことになったような順序になるのです。

 私の行ったのは、文久三年|亥年《いどし》の三月十日の朝――安さんに伴《つ》れられて師匠に引き合わされました。安さんが「……これが、そのお話しの兼松の次男なんで……」と口上をいっている。「ふむ、これア好《い》い小僧だ……俺が丹精して仕込んでやろう」など師匠は申していられる。子供心に初めて師匠との対面|故《ゆえ》、私はなかなか緊張しておりました。すると、師匠が、側《そば》にあった人物の置き物を私に指《さ》し、「お前、この人を知ってるか」と訊《き》かれたので、私はオッカナビックリ見ると、長い髯《ひげ》が胸まで垂《た》れ、長刀《なぎなた》を持っているので、「この人は関羽《かんう》です」と答えました。
 師匠はニッコリ笑い、「よく知っていたな、感心々々」と褒《ほ》められたのでした。師匠はさらに、「手習いをしたか」という。私は母から少しばかり手解《てほど》きされて、まだ手習いというほどのこともしていないので、「手習いはしません」というと、「そうか。手習いはしなくとも好い。字はいらない。職人はそれで好いのだ」といわれました。「算盤《そろばん》は習ったか」と次の質問に「ソロバンもまだ知りません」と答えました。「算盤もいらない。職人が銭勘定するようじゃ駄目だ、彫刻師として豪《えら》くなれば、字でも算盤でも出来る人を使うことも出来る。ただ、一生懸命に彫刻《ほりもの》を勉強しろ」というようなことで、極《ごく》簡短な口頭試験に私は及第したのであった。
 今でも耳に残っていますが、その時、師匠が安さんに向って、
「何ね、新弟子の人柄を見抜くには、穿《は》き物の脱ぎ方を見るのが一番だよ。遠くの方へ引ッ散らかして置くような奴《やつ》は碌《ろく》なものはありはしない。満足に揃《そろ》えるほどの子供なら物になるよ」
 私はその時、満足に穿き物を揃えて脱いでいたと見えます。



底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年1月17日第1刷発行
   1997(平成9)年5月15日第6刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
   1929(昭和4)年1月刊
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:山田芳美
校正:土屋隆
2006年1月15日作成
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