金次郎という。この人は野村|源光《げんこう》の弟子です(源光のことも、いずれ別に話します)。金次郎はなかなか腕の出来た人であったが、仏を彫刻することは不得手《ふえて》であって、仏に附属するところの、台座とか、後光とかいうようなものの製作が美事《みごと》であった。で、東雲師が仏の能《よ》く出来るのへ、ちょうど好い調和となって店の仕事にはかえって都合がよかった。姉さんが一人、お悦といって後家《ごけ》を通した人(後に私の養母である)、この人が台所をやるという風で、姉弟《きょうだい》三人水入らずで平和に睦《むつ》まじくやっていたのであります。
ところで、この蔵前という土地は、江戸でも名代《なだい》な場所――此所《ここ》には徳川家の米蔵《こめぐら》が並んでいる。天王橋寄りが一ノ口、森田町の方が中《なか》ノ口、八幡町《はちまんちょう》に寄って三ノ口と三ツ門があって、米の出し入れをして、相場も此所できまる。浅草寺《せんそうじ》に向って右側で、御蔵《おくら》の裏が直《す》ぐ大川になっており、蔵屋敷の中まで掘割になって船がお蔵の前に着くようになっていた(この中ノ口|河岸《がし》に水面に枝を張った立派な松があった。これが首尾《しゅび》の松《まつ》といって有名なもの、此所は今の高等工業学校校内になっている)。左側は、伊勢広、伊勢嘉、和泉喜などいう札差《ふださし》が十八軒もずっと並んでいて豪奢《ごうしゃ》な生活をしたものである。で、札差からの注文を受けるのは、必ず上等のもので、何職に限らず名誉の事のように思った。東雲師は律義な人、人品もよろしい、気持も純である処から、彫ってある置き物でも見る人があると、「お気に召しましたらお待ち下さい。差し上げましょう」といった風な寡慾で、サッパリしていますので、この札差の旦那《だんな》衆から同情されて、仕事は次から次からと店は繁昌《はんじょう》する。まず幸福に順調にやって行きました。
かくて、間もなく、東雲師は妻を娶《めと》った(生まれは本所《ほんじょ》二ツ目の商人の娘)。下谷|七軒町《しちけんちょう》酒井大学《さかいだいがく》という大名の屋敷に奉行をしていた婦人で、女芸一通り能《よ》く出来(最も長唄《ながうた》がお得意であった)、東雲師の妻として、好い取り合わせでありました。それからまた間もなく、東雲師の店は浅草諏訪町へ転じました。これは森田町は
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