になって行きました。
 すると、それを見たお華客《とくい》先の大門通りの薬種屋の主人が、「これあいけない、富五郎さん、お前さんは水銀《みずがね》にやられたのだ、早速手当てをしなければ……」というので、その主人は一通りの薬剤のことには詳しかったので、解剤《げざい》をもって手当てをしました。すると、ようやく吃逆は直りましたが、声は全く立たなくなる。身体は利《き》かなくなる。まるで中気《ちゅうき》のような工合になって、ヨイヨイになってしまいました。
 この時はちょうど私の父の兼松が九歳の時であります。九歳の時から一家扶養の任に当って立ち働かねばならない羽目になったというのはこれからで、その上弟が二人、妹が一人、九ツや十の子供には実に容易ならぬ負担でありました。

 こういう風の一家の事情|故《ゆえ》、その暫《しばら》く前から奉公に出ていた袋物屋を暇取って兼松は家《うち》へ帰って来ました。家へ帰って来はしたものの、どうして好《い》いか、十歳にも足らぬ子供の智慧《ちえ》にはどうしようもない。けれど、小供《こども》心に考えて、父富五郎は体こそ利かぬようになったが、手先はまことに器用な人であったから、「お父《とう》さん、何か拵《こしら》えておくれ、私《わたし》が売って見るから」というので、子供ながら手伝い、或る玩具《おもちゃ》を製《こしら》え、それを小風呂敷《こぶろしき》に包んで縁日へ出て売り初めたのです。
 そのおもちゃ[#「おもちゃ」に傍点]というのは、今では見掛けもしませんが、薄い板を台にして、それに小さな梯子《はしご》が掛かり、梯子の上で、人形《にんぎょう》の火消しが鳶口《とびぐち》などを振り上げたり、火の見をしていたりしている形であります。それがチョット思いつきで人目を惹《ひ》き、子供が非常にほしがるので、相当商売になりました。で、細々《ほそぼそ》ながら、まずどうにかやって行く……その内、縁日の商いの道が分るにつけ、いろいろまた親子で工夫をして、一生懸命に働いては、大勢の一家を子供の腕一本でやって行きました。
 こういう有様であるから、とても普通《なみ》の小供のように一通りの職業を習得するは思いも寄らず、糊口《くちすぎ》をすることが関《せき》の山《やま》でありました。その中《うち》、兼松も段々人となり、妻をも迎えましたが相更《あいかわ》らず親をば大切にして、孝行|息子《むすこ》というので名が通りました。それは全く感心なもので、お湯へ行くにも父親を背負《おぶ》って行く。頭を剃《そ》って上げる。食べたいというものを無理をしても買って食べさせるという風で、兼松の一生はほとんどすべてを父親のために奉仕し尽くしたといってもよろしいほどで、まことに気の毒な人でありました。けれども当人は至極元気で、愚痴一ついわず、さっぱりとしたものでありました。

 私の母は、埼玉県|下高野《しもたかの》村の東大寺という修験《しゅげん》の家の出であります。その家の姓は菅原《すがわら》。道補《どうほ》という人の次女で、名を増《ます》といいました。こうした家柄に育てられた増は相当の教育を受け、和歌の道、書道のことなどにも暗からぬほどに仕附けられておりましたので、まず父の兼松には不相応なほど出来た婦人であった。察するに、増は、兼松の境遇に同情し、充分の好意をもって妻となったのであったと思われます。兼松には先妻があり、それが不縁となって一人の男子もあった(これが私の兄で巳之助《みのすけ》という大工で、今年《ことし》七十八歳、信心者《しんじんもの》で毎日神仏へのお詣《まい》りを勤めのようにしております。今は日本橋《にほんばし》浜町《はまちょう》の娘の所で、達者で安楽にしている)。その中へ、自ら進んで来てくれて、夫のため、舅《しゅうと》のために一生を尽くした事は、私どもに取っても感謝に余ることである。
 祖父富五郎はちょうど私が十二歳で師匠の家に弟子《でし》入りした年、文久三年七十二歳の高齢で歿《ぼっ》しました。
 また私の父兼松は明治三十二年八十二歳にて歿し、母は明治十七年七十歳にて亡くなりました。



底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年1月17日第1刷発行
   1997(平成9)年5月15日第6刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
   1929(昭和4)年1月刊
入力:山田芳美
校正:土屋隆
2006年1月15日作成
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