むすこ》というので名が通りました。それは全く感心なもので、お湯へ行くにも父親を背負《おぶ》って行く。頭を剃《そ》って上げる。食べたいというものを無理をしても買って食べさせるという風で、兼松の一生はほとんどすべてを父親のために奉仕し尽くしたといってもよろしいほどで、まことに気の毒な人でありました。けれども当人は至極元気で、愚痴一ついわず、さっぱりとしたものでありました。

 私の母は、埼玉県|下高野《しもたかの》村の東大寺という修験《しゅげん》の家の出であります。その家の姓は菅原《すがわら》。道補《どうほ》という人の次女で、名を増《ます》といいました。こうした家柄に育てられた増は相当の教育を受け、和歌の道、書道のことなどにも暗からぬほどに仕附けられておりましたので、まず父の兼松には不相応なほど出来た婦人であった。察するに、増は、兼松の境遇に同情し、充分の好意をもって妻となったのであったと思われます。兼松には先妻があり、それが不縁となって一人の男子もあった(これが私の兄で巳之助《みのすけ》という大工で、今年《ことし》七十八歳、信心者《しんじんもの》で毎日神仏へのお詣《まい》りを勤めのようにしております。今は日本橋《にほんばし》浜町《はまちょう》の娘の所で、達者で安楽にしている)。その中へ、自ら進んで来てくれて、夫のため、舅《しゅうと》のために一生を尽くした事は、私どもに取っても感謝に余ることである。
 祖父富五郎はちょうど私が十二歳で師匠の家に弟子《でし》入りした年、文久三年七十二歳の高齢で歿《ぼっ》しました。
 また私の父兼松は明治三十二年八十二歳にて歿し、母は明治十七年七十歳にて亡くなりました。



底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年1月17日第1刷発行
   1997(平成9)年5月15日第6刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
   1929(昭和4)年1月刊
入力:山田芳美
校正:土屋隆
2006年1月15日作成
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