「カヤ」に傍点]方の仕事師は人足を使って雛形をたよりに仕事に取り掛って、大仏の形をやり出したのですが、この仕事について私の考えは、まず雛形を渡して置けば、大工と仕事師とで概略《あらまし》出来るであろう。自分は時々見廻り位で済むことだと思っておりました。で、膝を組んだ形、印を結んだ形、肩の丸味の付けよう……それから顔となってきて、顔には大小の輪などをこしらえて、外からどんどん木を打《ぶ》つけて……うまく仕事は運んでいることだと思っておりました。
ある日、私は、どんなことになるかと心配だから仕事の現場へ行って見ると、これはどうも驚いた。まるで滅茶滅茶なことをやっている。これには実に閉口しました。
大工や、仕事師は、どんなことをしているかというに、まるで仕事師が役に立たない。先には苦もないようなことをいっておったが、実際に臨んでは滅茶滅茶です。また、兄貴の大工の方も同様でまるでなっていないのです。たとえば、大仏が膝を曲げて安坐をしているその膝頭がまるで三角になっている。ちっとも膝頭だという丸味が出来ておりません。印を結んだ手が手だかなんだか、指などはわからない。肩の丸味などは矢張り三角で久米の平内《へいない》の肩のよう……これには閉口しました。
「これはいけない。こんなことは雛形にない」
と私がいうと、
「どうも、こうずう[#「ずう」に傍点]体が大きくては見当がつきません」
仕事師も、大工も途方に暮れているという有様……そこでこのままでやられた日には衣紋竿を突張ったような大仏が出来ますから、私は仕事師、大工の中へ入って一緒に仕事をすることに致しました。
「私のいうようにやってくれ」というので指図をした。
膝や肩の丸味は三角の所へ弓をやって形を作り、印を結んだ手は片面で、四分板を切り抜いて、細丸太を切って小口から二つ割にして指の形を作る。鼻の三角も両方から板でせって鼻筋をこしらえ小鼻は丸太でふくらみをこしらえる……という風に、一々仏の形のきまり[#「きまり」に傍点]を大|握《つか》みに掴んでこしらえていかせるのですが、兄貴の大工さんも、差し金を持って見込みの仕事をするのならなんでも出来るが、こんな突飛な大仕掛けな荒仕事となると一向見当がつきません。仕事師の方も普通の小屋掛けの仕事と違って、大仏の形に形取った一つの建物の骨を作るのですから、あたってみると漠然として手が出ません。ここをこうといいつけても間に合わないという風で、私は大に困りましたが、困ったあげく、芝居の道具方の仕事をやっているある大工をつれて来て、これにやらせてみますと、なかなか気が利いていて役に立ちます。私はこの大工を先に立てて仕事を急ぎました。
それで、私はよすどころでなく毎日仕事場へいかねばならなくなった訳であります。が、毎日高い足場へ上って仕事師大工達の中へ入って仕事をしていますと、なかなかおもしろい。面白半分が手伝って本気で汗水を流して働くようになりました。今日では思いも寄らぬことですが、また歳も若し、気も旺《さか》んであるから、高い足場へ上って、差図をしたり、竹と丸太をいろいろに用いて、頤《おとがい》などの丸味や胸などのふくらみをこしらえておりますと、狭い仕事場で小仏を小刀の先でいじっているとはまた格別の相違……青天井の際限もない広大な野天の仕事場で、こしらえるものは五丈近い大きなもの、陽気はよし、誰から別段たのまれたということもなく、まあ自分の発意から仲のよい友達同士が道楽半分にやり出した仕事ですから、別に小言の出る心配もなし、晴れた大空へかんかんと金槌の音をさせて荒っぽく仕事をするので、どうも、甚だ愉快で、元来、まかり間違えば自分も大工になる筈であったことなど思い出して、独りでに笑いたくなるような気持にもなったりしたことでありました。
だんだんと仕事の進むにつれて、大仏の頭部になってきましたが、大仏の例の螺髪《らはつ》になると、一寸困りました。俗に金平糖というポツポツの頭髪でありますが、これをどうやっていいか、丸太を使った日には重くなって仕事が栄《は》えず、板では仕様もない。そこで、考えて、神田の亀井町には竹|笊《ざる》をこしらえる家が並んでおりますから、そこへ行って唐人笊を幾十個か買い込みました。が、螺髪の大きい部分はそれが丁度はまりますけれども、額際とか、揉《もみ》上げのようなところは金平糖が小さいので、それは別に頃合いの笊を注文して、頭へ一つ一つ釘で打ちつけていったものです。仏さまの頭へ笊を植えるなどは甚だ滑稽でありますが、これならば漆喰《しっくい》の噛り付きもよく、案としては名案でありました。
「やあ、大仏様の頭に笊が乗っかった」
などと、群衆は寄ってたかって物珍しくわいわいいっております。突然にこんな大きなものが出来出したので、出来上がらない前から人々は驚いているという有様でありました。
ある日、私は、遠見からこれを見て、一体どんな容子に見えるものだろうと思いましたので、上野の山へ行って見ました。丁度、今の西郷さんのある処が山王山で、そこから見渡すと、右へ筋違いにその大仏が見えました。重なり合った町家の屋根から、ずっと空へ抜けて胸から以上出ております。空へ白い雲が掛って、笊を植えた大きな頭がぬうと聳えている形はなんというていいか甚だ不思議なもの……しかし、立派な大仏の形が悠然と空中へ浮いているところは甚だ雄大……これが上塗りが出来たら更に見直すであろうと、一層仕事を急いで、どうやら下地は出来ましたので、いよいよ、左官与三郎が塗り上げましたが、青銅の味を出すようにという注文でありますから、黒ッぽい銅色に塗り上げると、大空の色とよく調和して、天気のよい時などは一見銅像のようでなかなか立派でありました(この大仏に使った材料は竹と丸太と小舞貫と四分板、それから漆喰だけです)。
「どうも素晴らしいものが出来ましたね。えらいものをこしらえたもんですね」
など見物人は空を仰いでびっくりしております。正味は四丈八尺ですが、吹聴は五丈八尺という口上、一丈だけさばを読んで奈良の大仏と同格にしてしまいました。そこで口上看板を仮名垣魯文先生に頼み、立派な枠をつけ、花を周囲に飾って高く掲げました。こんな興行物的の方は友達の方が受持ちでやったのでありました。
それから、胎内の方は野見の親父さんの受持ちで、切舞台には閻魔の踊りを見せようという趣向。そこでまた私は閻魔の顔をこしらえさせられるなど自分の仕事をそっちのけにして忙しいことで、エンマの顔は張子に抜いてぐるぐる目玉を動かすような仕掛けにして、中へ野見の老人が入って仕草をするという騒ぎ……一方、古物展覧の方も古代な布片《きれ》とか仏像のような、なんでも時代がついて、曰く因縁のありそうなものを並べ、鳴戸のお弓の涙などと子供だましでなく、大人でも感服しそうな因縁書などを野見の老人がやって、一切、内外共に出来上がりまして、いよいよ蓋を明けましたのが確か五月の六日……五日の節句という目論見であったが、間に合わず、六日になったように記憶しております。
この興行物は「見流しもの」といって、ずっと見て通って、見た客は追い出してしまうので、見世物としては大勢を入れるに都合のいいやり方であります。大仏の頭が三畳敷位の広さで人間が五、六人位は入れますが、目、口、耳の窓から外を見ると、先の客は後から急《せ》かれて出て行くので、入り交《かわ》り立ち交るという手順、手っ取早く出来ております。蓋が明いた六日の初日には、はたして大入りでありました。
底本:「日本の名随筆46 仏」作品社
1986(昭和61)年8月25日第1刷発行
1991(平成3)年4月25日第9刷発行
底本の親本:「高村光雲懐古談」新人物往来社
1970(昭和45)年12月発行
入力:加藤恭子
校正:菅野朋子
2000年10月30日公開
2005年6月27日修正
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