あるのと、そのころは一切|鉋《かんな》を用いず、チョウナを使って削ったのだという、荒削りのあとに、古い時代のおのずからなる持味《もちあじ》がうかがわれただけだ。引札の説明では、建久四年、頼朝富士裾野、牧狩の時の仮家《かりや》を、同家の先祖、大外河美濃守がもらい受けて住家として、旧吉田の郷《ごう》に置いたのを、元亀三年、上吉田の本町に移し、慶長十五年、更に現在のところに転じたのだそうで、吉田にたびたび火災はあっても、不思議に建久館だけは、焼け残ったという話であるが、その黒く光った板だけが、古代動物の肉の腐蝕し去った後の骨枠のように、残存しているだけで、果して建久の遺物であるか否を私には極めようもないが、室《へや》には文久元年、萩園主人千浪という人が、祝大外河美濃守という建物の由来を書いた扁額《へんがく》がかけてあった。それと隣って、一段高く梯子段《はしごだん》を上ったところに、浅間神社を勧請した離屋《はなれや》が、一屋建ててあり、紀伊殿御祈願所の木札や、文化年間にあげたという、太々神楽《だいだいかぐら》の額や、天保四年と記した中山道深谷宿、近江屋某の青銭をちりばめた奉納額などがあった。そこから廻り縁になって、別の一室にも、槍、薙刀《なぎなた》、鉄砲などが「なげし」にかけられて、山東京伝《さんとうきょうでん》的|草艸紙《くさぞうし》興味を味わせるのに十分であった。
室へ戻って、友人にハガキを書いていると、富士の雲が引いて取ったように幕を明け、銀磨きの万年雪が、巨獣の斑紋《はんもん》のように二筋三筋キラリと光って、夏の富士にして始めて見るところの、威嚇《いかく》的な紫色が、抜打《ぬきうち》に稲妻でもひらめかしそうに、うつぼつと眉に迫って来る。「夕立気味あり」と書いてハガキを伏せたが、ほんとうに後になって思い知った。
頼んだ強力《ごうりき》のくるまで、欄干によって庭を見ている。枝振りのいい松に、頭を五分がりにした、丸々しいツツジや、梅などで囲んだ小池があって、筧《かけひ》からの水がいきおい込んで落ちている。ことしの春遊んだ吉野山中の宿坊に似た庭景色だと思うが、あの色つやのいい青苔と、座敷一杯に舞い込む霧のわびしさは、およぶべくもない。
四 富士浅間神社
浅間神社の後《うしろ》からならでは、出すまじき馬を、番頭が気を利《き》かして、宿まで馬士《まご》にひかせ
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