で落ちている、草ばかりではない、小さい切石や、角石が隠れていて、踵《かかと》でも足の指でも噛まれて、傷だらけになる、信濃金梅《しなのきんばい》の花は、黄色な珠を駢《なら》べて、絶頂から裾までを埋めた急斜の、大黄原を作っている、稀に女宝千鳥や、黒百合も交っているが、このくらい信濃金梅の盛《さかん》に団簇《だんそう》したところは、外の高山では、見たことがない。
白樺の痩せた稚い樹が出て来て、その中から山桜の花が、雪のように咲いている、四月の色は北岳の北の尾根から、信濃金梅の傾斜を伝わって、この森林にまで、流れ込んでいる。
次第に喬木の森林に入った、白く光る朽木は、悪草の臭いや、饐《す》えたような地衣の匂いの中に立ち腐れになっている、うっかり手が触れると、海鼠《なまこ》の肌のような滑らかで、悚然《ぞっ》とさせる、毒蚋《どくぶと》が、人々の肩から上を、空気のように離れずにめぐっている、誰も螫《さ》されない人はない、大樺池《おおかんばいけ》を直ぐ眼の下に見て、ひた下《お》りに下る。
森がちょっと途切れて、また草原になる、雪の塊が方々に消え残っている、大樺池は、この緑の草原の中で、針葉樹や白樺の稚樹《わかぎ》に、三方を囲まれ、一方は原に向いている、水はうす汚なくて、飲もうという望みは引ッ込んだが、草影、樹影、花影が池に入って、長い濃い睫毛《まつげ》が、黒い眼の縁《ふち》に蓋をしている、緑晶のような液体の上を、水虫が這っている、それが原の中の「眼」から、転ぶように動く涙のようだ。鳳凰山地蔵岳の大花崗岩山は、その峻《けわ》しい荒くれた膚を、深谷の空気に、うす紫に染めている。
それからまた針葉樹林を駈け下りる、水の音がするすると、樹の間を分けて上って来るようだ、水! 水! 連日味わなかった水! 一同は狂気のように躍り上って、悦んだ、そうして小さい谷川へ下りたときには、敷石の水成岩の上に、腹這いになって、飲む、嗽《すす》ぐ、洗う、もう浸《つ》かるばかりにして、やっと満腹した。
それから大樺谷を右左に、石伝いに徒渉すると、窮渓が開けて、林道となった、材木の新しく伐り倒された痕を見つけて、もう人がいると思った、羊歯《しだ》や木賊《とくさ》の多く生えている谷沿いの、湿地を下りてから、路も立派についている、能呂川の縁の、広河原というところへ出た、『甲斐国志』能呂川の条に「河側に木賊多
前へ
次へ
全35ページ中34ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小島 烏水 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング