立っている、また油紙の下へ引ッ込んでしまう、倉橋君は昨夜睡られなかったので、よくよく眠かったと見え、この騒ぎの中にもグッスリ寝込んでいる、白花の石楠花が、この生体のない人の頬に匂っている。
耳を澄まして、谷間に吹き荒《すさ》ぶ風の声を聞くと、その怖ろしさといったらない、初めは雷とばかり思っていた、あまり雷にしては間断なく鳴るから、不審に思って聞くと、「大井川の七日荒れ」だという、その「荒れ」が、今の風雨で初まったのだという、谷の角から谷の角へと屈折し、反響して、空気の大顫動《だいせんどう》が初まったのである、この山はいつ頃出来たのであろう、そうして何百万年もこうして寂として、いたのであろう、それが十年に一度、五年に一度、人間が入って来ると、谷間の底に潜んでいる風が、鎖を繋がれながらも、それからそれへと哮《たけ》り狂って、のた打ち廻り、重い足枷《あしかせ》を引き擦り引き擦り、大叫喚をしているのであろう、油紙の天幕の下は、朽木の体内のように脆くて、このまま人間は、生きながら屍《しかばね》となるのではあるまいかと、思われた。
この暴風雨がいつまでつづくか解らぬ、それよりも、差し当りこんなところに、今夜野宿が出来るか、否かが疑問である、思い切って谷へ下りようか、谷へ下りれば、この旅行の中止を意味することになる、一行は思い悩んで決し兼ねた……何だか筋骨を抜かれたように、気落がして、私も眼が重くなった。
高頭君であったか、誰であったか、不意に消魂《けたた》ましく、日本晴れだぞ、痛快痛快と、触れ廻るように叫んだ声におどろかされて、刎《は》ね起きると、雨はいつの間にやら霽《は》れ上り、西の方の空が一点の痣《あざ》をも残さず、拭いて取ったように、透明に奥深く冴えわたっている、鼻ッ先には農鳥《のうとり》山と間《あい》の岳《たけ》(白峰山脈)が、近く立っている、こんな大きな山々が、今まではどこに秘んでいたのだろう、天から降ったのかと思うように、出たのである、間の岳は頭がちょっと出ている。農鳥山の赭《あか》ッちゃけた壁には、白雪がペンキでも塗ったように、べッたりと光って輝いている。
西の方には木曾御嶽が、緩斜の裾を引いて、腰以下を雲の波で洗わせている、乗鞍岳は、純藍色に冴えかえり、その白銀の筋は、たった今落ちたばかりの、新雪ででもあるかのように、釉薬《つやぐすり》をかけた色をして、
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