花は、潔いけれど、血の気の失せた老嬢のように、どこか冷たかった、今一と目、この花を見ると、もう堪まらなくなって、凍えても私は、この高根薔薇を胸に抱いて死にたいと思った、高山植物というものを、殆んど摘み取ったことのない私も、このときばかりは、――白峰赤石《しらねあかいし》、峰々に住ませたまう荒神たちも許させたまえ――一輪を衣裏《ポッケット》へと秘めた、そのときは霧中の彷徨《ほうこう》で、考える余裕もなかったことだが、文芸復興期《ルネッサンス》以後、伊太利《イタリー》唯一の天才と呼ばれた山岳画家ジョヴァンニ・セガンチーニが、夏の初めアルプス山の雪中で、莟《つぼ》める薔薇を発見して「|薔薇の葉《エ・ローズ・リーフ》」という名画を描いた、それは白い床の雪の中から髪の毛の柔かい、薔薇色の頬の愛らしい乙女が、顔を出して、涼しい眼をバッチリと瞬いている、背景《バック》は未だ寂寥な眠から醒《さ》めない、暗《やみ》の空に、復活の十字架が、遠くに小さく見える、象徴の匂いの饒《ゆた》かな作品である、あの高根薔薇は、私には永久に忘られない花の一ツである。
 やっとこの山での最高点――と思う、霧で遠くの先は解らない――へ着いた、何だかこう俄に広い街道へでも出たような気がした、霧はフィューと虚空を截《き》って、岩石に突き当って、水沫を烈しく飛ばす、この水球《みずたま》はどこの谷から登って、どこの谷へ落ちるのか解らない、雷鳥だか山鳩だか、赤児のような啼声が、遠くなり、近くなって、偃松の原から起る、冥府の奥の、奥の方から、呼ぶようで、気が遠くなる、未だ後の人たちが来ないので、私は岩角に尻を据えて、黙って霧の中に座っていた、霧は鋭敏なる神経を有する触角のように、尖端を三角形にして、ヒューと襲って来る、霧ではない、もう雨だ、岩も偃松も、寂寞そのものの、しわがれ[#「しわがれ」に傍点]声を挙げる、私は孤独だ、天もなく、地もなく、ただ幾団が幾団に、絶えず接触して、吹き荒るる風と霧があるのみだ、宇宙におよそ蕭殺の声といったら、高原の秋の風でもなければ、工場の烟突の悲鳴でもない、高山の霧の声である。
 その中に倉橋君が来る、晃平を殿《しんがり》として、一行が揃う、こう霧がひどくては、方角も何も解らない、晃平は荷を卸して、路を捜索に出たが、無益に戻って来た、岩の間を点接して、トウヤクリンドウ、ミヤマキンバイ、ミ
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