、漆黒の空である、人の心も泣き出しそうになる、しかし暁天までには、焚火のとろとろ火に伴《つ》れて、穴へでも落ちたようにグッスリと寝込んでしまった、眼が覚めると鳥の声がする、谷間に「ひんから」「ひんから」と響きわたる、それが年久しく谷川の底に沈んでいる、透き通った、白い冷たい、磁器の魂が啼くのでもあるようだ。
起きて見ると、霧が団《まろ》くなり、筋になり、樹の間から立つ、森からも、谷底からも、ふわりと昇る、例の山款冬《やまふき》の茎を、醤油と鰹節とで煮しめて、菜《さい》にする、苦味のない款冬である、それから昨夕の残飯に、味噌をブチ込んで「おじや」を拵《こしら》えて啜《すす》る、昼飯の結飯《むすび》は、焚火にあてて[#「あてて」に傍点]山牛蒡《やまごぼう》の濶葉で包む、晃平の言うところによると、西山の村では、この牛蒡の葉を、餅や団子に捏《こ》ね入れて、草餅を作るそうだ、蓬《よもぎ》のように色が好くはないが、味は宜《よ》いと。
一夜作りの屋根――樅の青枝を解き施《ほぐ》して、焚火に燻《く》ゆらしてしまう、どんなに山が荒れても、この谷底まで退かない決心である、脂の臭いのする烟は、シュウシュウと呻《うな》りながら霧に交わって※[#「風にょう+昜」、第3水準1−94−7]《あが》ってゆく。
川に沿《つ》いて、一、二丁も溯り、正東《まひがし》の沢へと入る、石の谷というよりも、不規則に、石を積み累《かさ》ねた階段《ステージ》である、石からは水が声を立てて落ちている、石の窪みには澄んだ水が湛《たた》えている、その上に、楢の葉が一枚、引き※[#「てへん+止」、第3水準1−84−71]《ちぎ》って捨てた紙片のように、浮いている、自然という無尽蔵は、何物をも、こうして惜しげなく、捨てるのだ、これからの深林もそれだ。
石の谷の中途から、路を奪って針葉樹林に入る、唐檜や栂やの純林である、樹は大きくはないが、ひょろひょろ痩せて丈が高い、そうして油気の失せた老人のように、はしゃいだ膚をして、立っている、十五、六年前に、一度伐採したことがあるのだそうで、その痕跡の仆木《ふぼく》が、縦横に算を乱している、そうして腐った木に、羊歯《しだ》だの、蘇苔が生ぬるく粘《こ》びついて、唐草模様の厚い毛氈《もうせん》を、円く被《かぶ》せてある、踏む足はふっくらとして、踵が柔かく吸い込まれる、上へ上へと高くな
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