、小止みを待っている。雨嫌いな私は、鰍沢《かじかざわ》で、万一の用心にと、買って置いた饅頭笠を冠り、紐《ひも》の結び方で苦心をしているうちに、意地の悪い雨は、ひとまず切り上げてしまって、下界を覗く空の瞳《ひとみ》がいまいましいまでに冷たい。また、二回の徒渉をして、広河内《ひろこうち》へと達した。
私は、このような狭苦しい谷の中で、このような広濶な地を見られようとは思わなかった。広河内のあるところは、東俣の谷の奥の、殆んど行き止りで、白峰山脈と、赤石山脈の間が、蹙《せばま》って並行する間の、小《ちいさ》い盆地《ベースン》である。丁度、白峰山脈からいえば、農鳥山の支峰の下で、河原から、赤石山脈の間《あい》の岳《たけ》とは、真面《まとも》に向き合っている。両山脈の相対する間隔は、直径約一里もあろうか、間の岳の頂までは、この河原から一里半で達せられる。岳の裾から河原へは、灰色の沙《すな》が、幾町の長さの大崩れに押し出している。全く洪水よりも怖しい沙の汎濫である。絶頂から山越しに向へ一里半も下りると、中股というへ出られる。なお一里で、小西股の材木小舎に出て、そこから八里ばかりで、この旅行の発足点とした、湯島温泉へ下られるということであったから、もし天候が嶮悪で、白峰山脈縦断が、覚束《おぼつか》なかったら、その路を取って、引き返すはずにして、きょうは天候も悪いし、これから農鳥山に登る間に、適当の露宿地がないというので、まだ早いが一泊することにした。猟師は楓の細木を伐《き》り朴《たお》し、枝葉を払わないままで、柱を立て、私たちの用意して来た、二畳敷ほどな油紙二枚を、人字形に懸けて、家根を作る。それから、樅や、栂の小枝を、鉈《なた》で、さくりさくり伐り落して、鮮やかな、光沢のある、脂の香気が、鋭敏に鼻感を刺戟する、青葉の床を延べる。ふっくりと柔く、尻の落ちつきがいい。同行八人の寝室も、食堂も、ここで兼ねるのである。早速、焚火にかかって、徒渉に濡れた脚絆《きゃはん》を乾すやら、大鍋を吊《つる》して湯を沸かしたりする。
広河内の土地のありさまは、中央日本アルプスの聖境、上高地の中、島々《しましま》方面から徳本《とくごう》峠を下り切った地点に、よく似ている。大沢が、濶く、峡間に延びて、峡流の分岐したのが、幾筋となく蜿《う》ねり、枯木が、踏み砕かれた、肋骨のようになって、何本も仆れてい
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