、底を傾けて、水を震うので、森の中まで、吹雨《しぶき》が迷い込んで、満山の樹梢を湿《うるお》す。白樺や五葉松は、制裁もなければ、保護もなく、永《とこし》えに静粛に、そして厳格に、造化の大法を、寸分容赦なく行ってゆくように、この自然の王国から、定まれる寿命を召されて、根こそぎに、谷の中にたわいなく倒れている。床几《しょうぎ》代りにまた腰をかけて、少し休む。河原の砂に、点々として、爪痕のあるのは、水を飲みに下りた、鹿の足痕であると、猟師はいう。同行の高頭君は、退屈紛れに、杖を沙上に揮《ふる》って、それを模写していた。自然は欺かれず、人間の智能は、鹿の足痕一つをだに描き得なかった。
昨夜は、この旅行で、初めての野宿で、睡眠不足であったためか、私は眠くなった。風は峡間にどこからともなく漲《みなぎ》って来て、樹々の葉は、婆娑婆娑《ばさばさ》と衣摺《きぬず》れのような音を立てる。峡谷の水分を含んだ冷たい吐息が、頬《ほお》や腮《あご》にかかる。川の水が子守歌のように、高くなり、低くなって、私たちの足音を消して、後から追い冠せて来るときには、一行はまた、森の中の人となっていた。森の中には款冬《ふき》の濶葉が傘のように高い。ドウダンツツジの葉と、背向きになって、翠《あお》い地紙に、赭《あか》っちゃけた斑《ふ》が交ったようだ、何枚も、何枚も、描き捨てられた反古《ほご》のような落葉が、下に腐って、半ば黒土に化けている。
また河原へ出た。もう時刻だから、紫の風呂敷を開ける。矢車草の葉包が釈《と》かれて、昼のものが腹に入った。空は、もう泣き出しそうになって、日の眼を見ないから、手が凍《こご》える。焚火《たきび》に暖まっていると、きょうは、七月の二十三日だのに、という声が、一行の中から洩れた。
それから、幾度も川の水を避けて、森に入ったり、河床へ下りたりする。森の枯木は、白く尖って、路を塞いでいるので、猟師は、先登に立って、鉈《なた》で切っ払う。太い、逞ましい喬木でも、心《しん》が朽ちているから、うっかり捉《つかま》ると枝が折れて、コイワカガミや、ミヤマカタバミの草の褥《しとね》へ俯《のめ》ったりする。また、幹には苔が蒸して、皮は土より柔く、ぼろぼろに腐っているから、生あるものの肌のようで、ぬらりと滑り、ぐちゃりと触れて、いやな気持がする。
谷は、益《ますま》す迫って来る。手を伸し合う
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