三時間半。
 糀屋《かうじや》といふ旅籠屋に、草鞋を釈《と》いて中食を済ました、天竜川もこゝからは、先づ下流の姿になるので、交通もしげくなり、下り船も、毎日便宜がある、船を乗り替へるため、暫らく川に臨んだ茶屋で、時間を待つてゐると、八反帆を南風に孕ませた上り船が、白地に赤く目じるしを縫ひつけて、二帆三帆と、追つかけ追つかけ、上つて来る、久根《くね》銅山から、銅を積み出すために、来るのだといふ、さうしてその帆には、太平洋の海気と塩分が、一杯に含まれてゐる、南へ来たのだ、太平洋が近くなつたのだ、桔梗色の黒汐が走る八重の海路が、川の出口に横たはつてゐるのも、もう遠くはあるまい、日本アルプスおろしの北風は、冬でももう、この地までは来ない、私は山から遁れた、たしかに遁れた、しかしながら私は、恋々として悲壮の谷なる天竜川の上流を、振り返り、振り返り見ることなくして、次ぎに出る客船には乗れなかつた。



底本:「現代日本紀行文学全集 中部日本編」ほるぷ出版
   1976(昭和51)年8月1日初版発行
底本の親本:「現代日本文学全集 第36巻」改造社
   1929(昭和4)年8月
※巻末に「1914(大正3年7月)記」の記載あり。
※「ツ」と「ッ」の混在は底本通りとしました。
入力:林 幸雄
校正:門田裕志
2003年5月18日作成
青空文庫作成ファイル:
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