にかかって来たが、前に槍に登ったことのある人もいるので、峰《ピーク》にはもう登らないと決めたらしく、一と塊まりに小さく黒くなって休んでいる、私は兀々《ごつごつ》した岩角に一人ぼっちに突っ立って、四方を見廻わした、未だ午前である、硫黄岳の硫烟は、曇り日に映って、東の方へと折れて、連山の頭へ古い綿を、ポツリポツリと※[#「てへん+止」、第3水準1−84−71]《ちぎ》っては投げ出すように、風に吹き飛ばされている、乗鞍岳が濃い藍※[#「青+定」、第4水準2−91−94]《らんてん》色に染まって、沈まり返って、半腹には銀縁眼鏡でも懸けたような雲が、取り巻いている、遠くの峰、近くの山は、厚ぼったい雲の海の中で、沈鐘のように、底も知られず浮き上らずにいる、その瞬間に幻滅する、恐怖すべき透き通った藍色は、大山脈の頭を見ているというよりも、峡間から大海の澄み返って湛えているのを見るようだ、その中で我が槍ヶ岳という心臓が、日本アルプスという堅硬な肉体に、脈を搏っているのだ。
 動揺する、動揺する、天上のものは皆動揺して一刻も停まってはいない、霧は乱れ、雲は舞って、山までが上ったり、下ったりしている、森林も揺々《ゆらゆら》と動いている、私は森厳なる大気の下で、吹き飛ばされそうな帽子をしかと押え、三角標の破片に抱きついて、眼下に黒く石のように団欒している一行の人たちを、瞰下しながら、無限の大虚からの圧迫を、犇々《ひしひし》と胸に受けた。
 絶壁の下なる大深谷からは、霧がすさまじいいきおいで、皺嗄《しわが》れ声を振り立てて上って来る、近づくほど早くなるかと思うと、端から砕けてサアッと水球を浴びせる、そうして呻りながら、尾根につかまり、槍先へ這いずり上って、犠牲になる生霊もがなと、捜し廻っている。



底本:「日本の名随筆10 山」作品社
   1983(昭和58)年6月25日第1刷発行
   1998(平成10)年8月10日第26刷発行
底本の親本:「小島烏水全集 第七巻」大修館書店
   1979(昭和46)年11月発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:林幸雄
2003年5月17日作成
青空文庫作成ファイル:
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