紫になっている。案内者のも同じだ、私のもそうだという。なお一合ばかり登ると、変幻極まりない雲が、また出た、しかも夏雲のように、重々しく平板状に横《よこた》わらないで、垂直に高く突っ立ち上り、我が大火山の赤壁と、両々対立していたが、やがてこの灰色の浮動する壁は、海洋からの温暖なる軟風に吹かれて、斜に推し倒され蝕《むしく》ったように穴を生じて、その穴の底の方から、岩燕の啼く音が聞えた。
 初めて雪に触れたのは、七、八合目の間であった、殊に八合目の室だけは、どういうものか、半ば戸が開いて、中の水桶には厚氷が張り詰めている、誰かが捨てて行った手拭は、板のように硬くシャチ張っている。
 一同は杖に倚《よ》って、水涸れの富士川を瞰下《みおろ》しながら、しばらく息を吐く。

      四

 雪の厚さは二寸か三寸ばかり、屏風が浦という、硬い熔岩《ラヴア》の褶折が、骨高に自然の防風|牆《しょう》となっている陰には、風に吹き落されたものか、雪が最も多くて、峡流のように麓へ向って放射している、その重味で、黒沙の土が刳《え》ぐられたように凹んでいる、黒沙を穿つと、その下にも結晶した白いのが、燦《きら》りと光る、山体が小さく尖って来るほど、風が附き添って攀じ上り、疾《はや》く吹きなぐるので、熔岩を楯に身をすぼめ、味も汁気もない握り飯を喰べて、腹を拵える。
 九合目に来た、もう一杯の雪で、コンクリートで堅めたように凍っているから、鳶口ででもなければ、普通の金剛杖では、立ちそうにもない、胸突八丁、大ダルミなどは、大分息苦しく、殊に足の辷《すべ》り方が烈しかったが、それでも思いの外に、怯《ひる》まずに登りついた。
 駒ヶ岳から浅間祠前は、雪が凝《こお》って、鱗のように、あるいは貝殻を刻んだように、皺が寄っている、一尺位は深いところで積っているかも知れないが、杖が立たないから、測ることも出来ず、また実はそういう、余裕も、寒さのためになかったので、直ぐに鉄の頸輪のように、噴火口を繞《めぐ》れる熔岩塊の最高点、剣ヶ峰――海抜三七七八|米突《メートル》まで登り切ると、北風は虚空の中を棒を振るようにヒュウヒュウ呻り声を立て、顔や手足の嫌《きらい》なくチクチク刺す。初冬の山と幾分か軽く視て、雪中の登山服装というほどの準備もしていなかったため、幾重の衣も徹されて、腹から股にかけ、薊で撫で廻されるような疼痛を感じ初めた、唇はピリッとして、亀裂するかと惑われ、その寒さにわなわなと骨髄から震動した。
 足許を瞰下《みおろ》すと、火口壁の周辺からは、蝋燭の融けてまた凝ったような氷柱《つらら》が、組紐の如く、何本となく、尖端を鋭くして、舌のように垂れている、火口底は割合に、雪が多くない。振り返れば外輪山から山腹までの大絶壁は、葡萄《えび》色に赭《あか》ッちゃけて、もう心もち西へ廻った日光が、斜にその上を漂っている、西の方遥かに白峰《しらね》、赤石、駒ヶ岳、さては飛騨山脈が、プラチナの大鎖を空間に繋いだように、蜿蜒《えんえん》として、北溟《ほくめい》の雲に没している、眼を落すと、わが山麓には、富士八湖の一なる本栖《もとす》湖が、森の眼球のように、落ち窪んで小さく光っている。
 来《こ》ん年の夏の炎熱が、あの日本北アルプスの縛《いましめ》の、白い鎖を寸断して、自由に解放するまで、この山も、石は転び次第、雲は飛び放題、風は吹き荒《すさ》ぶなりに任せて、自然はその独創の廃址《ルイン》を作りながら、かつこれを保護しているであろう、今という今「古い家」を塗り潰した「新しい家」の屋上に立って、麻痺した私の神経は、急に幾倍の鋭さを加え、杖を力に延び上って、日本アルプス大山系を手招きして小躍りした。
「寒いも寒いが、見晴しも大したもんだ……」と私の方へ顔を向けて、「山運の好い男」が言った。
 しかし、その語尾は勁風に吹き飛ばされてしまった。



底本:「山岳紀行文集 日本アルプス」岩波文庫、岩波書店
   1992(平成4)年7月16日第1版発行
   1994(平成6)年5月16日第5刷発行
底本の親本:「小島烏水全集 全十四巻」大修館書店
   1979(昭和54)年9月〜1987(昭和62)年9月
入力:大野晋
校正:地田尚
1999年9月20日公開
2003年10月12日修正
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