して見ると、岩壁|厳《い》かめしい赭色《あかいろ》の農鳥は、いつ、いかなる時でも、おそらく山が存在する限りは、見えているだろう。(あるいは農鳥というのは、農鳥山の麓近い沢に、雪の消えた跡へ、黒く出る岩で、卵を三つも持って、現われるという、言い伝えもあるそうだ。)
 山の雪が動物の形態となって消え残ることは、何か因縁話があるのかは知らぬが、殊に中央日本の山に多いようである、自分の知った限りでも、前記の蝶ヶ岳、白馬、大蓮華の外に、先ず東海道から見た富士山の農男(馬琴の『覊旅漫録』巻の一、北斎の『富嶽百景』第三編に、その図が出ている、北斎のを茲《ここ》に透き写す、これで見ると、蝶や農鳥は、雪がその形をするのだが、農男は、雪に輪を取られた赭岩が、人物の格好に見えるらしい)は、名高いものであるが、甲府方面からは、富士の「豆蒔小僧」というのが見える、八十八夜を過ぎて、豆を蒔く頃になると、あの辺の農夫は、額に小手を翳して、この小僧を仰ぐものだそうな、それは小僧が二人連れ立って、一人は笠を冠り、一人は片手を挙げて、豆を蒔く形をしているので、同じく雪に輪廓を取られた岩が、そういう形に見えるのである。殊に越後には最も多い、妙高山の「農牛」は、甲斐鳳凰山(実は地蔵岳の方にあるので、牛は首を北に向け、尾の方を少し高くしている、甲府から見て、一間位の大きさに見えるそうである)と同じであるし、焼山の蝙蝠《こうもり》は、糸魚川《いといがわ》方面からは、分明に見えるというし、米山に鯉があらわれると、魚が漁《と》れないという諺もある、頸城《くびき》郡の黒姫山の寝牛、同じく白鳥山の鳥など、雪の国だけあって、山と雪の関係は、何か神話の材料にでもなりそうである。友人辻本工学士に拠ると信濃越中の国境に聳えている祖父《じい》ヶ岳は、「種蒔き爺さん」が笊《ざる》を持った具合に現われるので、山腹雪解の頃、偃松《はいまつ》が先ずその形に蔓《ひろが》って、出るのではないかという話である、偃松の仲間入は最もおもしろい。
 農鳥山の鳥形の美《うる》わしいことを、自分に説いてくれたのは、前に引合に出した友人N君である、N君は早稲田文科の出身で、創作に俊秀の才を抱きながら、今は暫く峡中で書を講ずるの人となっている、自分はN君の通信から、ここに二通を抜く、殊に手紙に添えて、送られたN君のスケッチは、頗《すこぶ》る緻密なもので、小さい雪の班点まで、洩《も》らされなかったのであるという。

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白峰より彼《かの》鳥を奪わば、白峰は形骸のみとならんとまで、この頃は飽かず、眺め居候《おりそうろう》、……白峰の霊を具体せるものは、誠にこの霊鳥の形に御座候、前山も何もあったものにあらず、東南富士と相対して、群山より超越せる彼巨人の額に、何ものの覆うものなく、露出せる鳥の姿、スカイラインよりは、僅《わずか》に一尺も低かるべきか、農鳥の農の字が平野的にて、気に入らず、また決して鶏とは見えず、首長きところよりも紛《まご》う方なき水鳥に候、埴輪の遺品に同じ形の鳥と見給うべし、水掻きまであり、高さここより見て、一間も候べきか、甲府附近を、最も観望宜しき場処と存候。
誠に晩春より初夏へかけ(ここの赤裸々となるは、夏期わずかの間に候)最も歴々と仰がるべく、夏にても、形は明確に、白雪山を埋むる今にても、こを恋人とせる小生の目には、同じ雪に蔽《おお》われながらも、この鳥形のみは粗き[#「粗き」に傍点]山の膚(元より白色)の中に、滑らかに平に[#「滑らかに平に」に傍点]浮び出で居候が、認められ候。
白峰の壮観は、空気澄水の如き朝、明らかにて、正午よりは、淡き水蒸気に遮《さえぎ》られ候、但し日光の工合にて、かえって鳥だけは、朝よりも明瞭に仰がれ候(側は陰に入るより)、駒ヶ岳の孤峭《こしょう》は、槍ヶ岳を忍ばせ、木食《もくじき》仙の裸形の如く、雪の斑は、宛然《さながら》肋骨と頷《うなず》かれ候、八ヶ岳も、少し郊外に出づれば、頭を現わすべく、茅岳、金岳より、近き山々、皆冬枯の薄紫にて、淡き三色版そのまま、御阪山脈の方向は富士山なくんば見るに足らず、富士の雪は夕陽に映るとき、最も美しく候、ここはなお雪がふらず、白峰|颪《おろし》は大抵一日おき位に、午後より夕まで、または夕より十二時頃まで、凄《すさ》まじき音をたて、この夜|坤軸《こんじく》を砕く大雪崩の、岩角より火花を迸発《ほうはつ》する深山の景色を忍び居候。(十二月十八日甲府より)
別紙白峰の拙画は、今年初秋―四十年において、最も白峰を明瞭に仰ぎ得し日の午前写生せしものを、忠実に写し直せしものに御座候、赭色なるは雲なき頃とて、皺谷の赤膚を露出するもの、甚だ妙ならず候えども、スカイラインと共に、山の皺は、いかにも興多きため、忠実に岐脈をも余さざりしつもりに候
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