、北寒地方の雪といえども、これらには辛うじて匹敵し得られるに過ぎまい。
しかしながら山岳の雪は、ただその美観によって研究される価値あるばかりでなく、造山力を有する動作から言っても、雪それ自身の特立した状態から言っても、また生物を保護する恩恵から言っても、興味があるから、以下にこれを説く事にする。
試《こころみ》に諸君と共に、郊外に立って雪の山を見よう、雪が傾斜のある土の上に落ちると、水のように低きに就く性質を有するから、山の皺や襞折《ひだ》の方向に従って、それを溝渠として白い縞を織る。平生はあるとも見えぬ皺が、分明に出来る。そればかりではなく、空線の遥か遠くに、白い頭が方々に出るので、あんな所にも山があったのかと初めて気が注《つ》く。また山の頭のギザギザは、白くなったために、輪廓がハッキリして、一本一本の尖りまで見える。
白い山に碧い空は、最も対照の美なるものである、或植物学者が花の色の最も眼にハッキリ見えやすいのは、緑の葉で包まれた白い花である、と言ったが、碧い空で包まれた白い山も、同じ視線を惹《ひ》くのである。それに反して紫の山となると、碧い空との区別が朦朧としてしまう。その時には、雪の白色を拭き消された夕暮になるのである。富士山を見ると、雪の真っ白なときには、頂上の八朶《はちだ》の芙蓉に譬《たと》えられた峰々がよく別る。山腹に眼をうつすと、あの雪の中で藍になって雪が消えたように見える所がある。あれは宝永の噴火口で、雪が実際は消えていないのであるが、火口壁の陰影で、藍色に見えるのである。少し近づいて見ると、その火口壁の雪は、反対に白紙でも貼りつけたように目立って見える。また方面によっては、二合目位から以下に、雪が及んでいないのは、それも実際雪がないからではなく、森林帯の黒木のために截《た》ち切られているからである。
古い雪の上に新雪が加わると、その翌る朝などは、新雪が一段と光輝を放って眩《まば》ゆく見える。雪は古くなるほど、結晶形を失って、粒形に変化するもので、粒形になると、純白ではなくなる、また粒形にならないまでも、古い雪に白い輝きがなくなるのは、一部は空気を含むことが少ないからで、一部は鉱物の分子だの、塵芥泥土だのが加わって、黄色、灰色、または鳶色に変ってしまうからだ。殊に日本北アルプスの飛騨山脈南部などでは、硫黄岳という活火山の降灰のために、雪のお
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