いる。花袋については、花袋全集の刊行されている今日、その文学的総収穫について、統一した見解が、定めて下されることであろうが、私は彼の紀行文について多く世に知られていない功績をあげたいと思う。
花袋は、明治二十七年四月六日、太田玉茗(花袋夫人の兄)とともに、武州小金井の桜花を見て、急に幕末の儒者林※[#「雨/鶴」、第3水準1−93−74、75−9]梁先生が記した多摩川の上流に遊びたくなり、財布の軽いのをがまんして、二人で青梅街道へと出た。当時は青梅鉄道もなく、全くの徒歩、しかも名ばかりの街道で、寂寞無人、道跡は泥と小石で、折からの大雨に、ビショ濡れ、行っても、行っても、武蔵野か、小松原ばかりで、二人抱き合って、不遇の文人が、不遇の山水のために、数奇な運命を嘆き合った。困憊と疲労の極、こんなにしてまで旅行して、ほんとうに、美しい山水があるのだろうかと、受け身の玉茗が花袋に念を押した。青梅の町ではどこの宿屋でも、風体のわるいために拒まれ、最下等の木賃宿に、辛くも一夜を明かして翌朝、日向和田からまもなく多摩川の岸に出で、それから村舎離落の間に桃の花、それから多摩の奇景が開け、小丹波、白丸、数馬の切通しとへて「山中の荒駅なる小河内村」へと着いた。そしてまた、不遇の人にして不遇の山水を見る、あに悲しからずやと、慨然としている。実にその頃は、奥多摩の風景を知る者なく、説く者なく、東都を隔てること二十里にすぎないほどの近隣でありながら、多摩川上流、あるいは奥多摩は、全く閑却されていたのであった。それを見つけ出して世間の注意をひいたのは林※[#「雨/鶴」、第3水準1−93−74、76−6]梁の昔は言わず、田山花袋を以て多摩川開発の恩人とせずばなるまい。聞説《きくな》らく多摩川に沿うた溝には、独歩の「忘れ得ぬ人々」の作にちなんで、独歩の碑が立っているとか、さらば近代における多摩川風景の祖道者として、花袋の碑は、そこに建てらるべきではなかろうか。
花袋の紀行文集の中では『南船北馬』(明治三十二年九月版)が最もすぐれている。「多摩の上流」や「日光山の奥」のごとき名篇が、その中に収められている。[#地付き](昭和十一年七月)
底本:「アルピニストの手記」平凡社ライブラリー、平凡社
1996(平成8)年12月15日初版第1刷発行
入力:大野晋
校正:伊藤時也
2000年11月2
前へ
次へ
全6ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小島 烏水 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング