節編輯記者に相話し早速御送金いたすやう取計らひ申すべく、不知とは申しながら怠慢の罪免るべからざることと存候、何卒不悪御思召被下度候、追々年もさし迫りさぞ御忙しきことと存候、大日本地誌は先日も紫紅兄の横浜通なる眼光を以て批評せられ大にヘコミ居申候ことに御座候、先づは御返事まで※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々不一
烏水大兄 九日[#地から1字上げ]花袋
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半紙一枚に、墨筆で書いてある。状袋の裏には、牛込区若松町百卅七田山花袋とある。文中の『大日本地誌』は、山崎直方佐藤伝蔵両氏の編で、地質地形等は両氏が受け持ち、部分的の地誌は、花袋らが分担記述していたのであった。そのうち、明白に花袋の記述と思われるぶんに対して、何か誤謬を注意した記憶がある。先日も横浜通の紫紅兄(山崎)の批評で凹んでいるとあるのも、横浜付近の誤謬記事を指摘されたことを、付随して言ったのだ。
花袋の周旋で『太陽』に載せられた白峰三山の紀行文は、意外の人の知己を得た。それは『日本風景論』の著者志賀|重昂《しげたか》先生で、この一文から、私という人間に目をとめられた。越後の豪家|高頭仁兵衛《たかとうにへい》[#ルビの「たかとうにへい」は底本では「たかとうじんべえ」]氏が、山岳辞彙ともいうべき浩澣《こうかん》な原稿をかかえて、志賀先生を訪問せられたとき、横浜にいる人が、こんな紀行文を発表している、山を知っている人らしいから、訪問してみたらどうかと、注意されたそうだ。高頭君が、その原稿をかかえて、私の山王山の宅を尋ねられたのも、そのためであった。原稿は、後に『日本山嶽志』と題して出版せられた。
その後、私はたしか孤雁君からと思うが、ビョルンソンという作家の、山岳小説のことを聞かされた。花袋も何かでビョルンソンのことを書いていたかと記憶しているが、それについて花袋に問い合わせの手紙を出した。その文中で花袋の近作、紀行文集『草枕』の中の事実に合っていない個所を注意した。右に対する返事、
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拝啓 其後は御無沙汰にのみ打過申候偖小生今月十七日より北陸漫遊の途に上り漸く今日帰京御手紙の御返事相おくれ申訳これなく候草枕につき有益なる忠言を賜り有難多謝候再版の時には訂正いたし度と存候貴著『日本山水論』は草村氏より拝受、確かに一佳作たるに背かずと存候一読後大日
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