には閉口した、宿屋界隈に多いのは蕗《ふき》で、大きいのは五、六尺の丈に達する、飛騨の蒲田から焼岳を越して来る人も、島々から徳本峠を越して来る人もこの宿で落ち合うが、荷物に蕗の五、六茎を括りつけていないのはない、猟士の山帰りの苞《つと》にも、岩魚を漁る叺《かます》の中にも蕗が入れてある、同じく饗膳に上ったことは、言うまでもない。
 翌《あ》くる日は穂高岳に上るつもりで、朝|夙《はや》く起きた、宿の女が「飯が出来やしたから、囲炉裏の傍でやって下せえ、いけましねえか」と、畏る畏る閾《しきい》越しに伺いに来る、いいとも、と返辞して大囲炉裏の前に、蝋燭を立て、猟士や宿の人たちと、車座になって飯を済ます、準備《したく》も整って出かけると、雨になった。
 宿の前には、梓川の寒流が走っている、この川は、北から出て、西へと迂回し、槍ヶ岳、穂高山、焼岳などの下を蜿《う》ねり、四山|環峙《かんじ》の中を南の方、島々に出て、また北に向いて走るので、アルプス山圏を半周することになる、川を隔てた八右衛門岳は、霧雨の中から輪廓だけをあらわす、淡い水に濃い水で虚線を描《か》いたようだ、頑童が薄墨で無遠慮に線を引くと、こんなのが出来る、しばらくして、虚線が消えると、兀岩《こつがん》削るが如き石の峰が峻立する、柔《やわらか》い線で出せば出せるものかなとおもう。
 川に沿《つ》いて行く、この国特有の信濃|撫子《なでしこ》(実は甲州にもある)が、真紅に咲いている、河原に咲くことが多いので、河原撫子と、土地の人はいうようだ、森と川の間に、一筋道が通じている、本流に「へ」の字をやや平にしたような橋が架っている、取りつきに杭を組んであるのは、牛馬の向岸へ渡るのを拒《ふせ》ぐためだ、横の棒を一本外して、人は出入をする、橋の半《なかば》に佇んで振り仰ぐと、焼岳の頭は、霧で見えなかったが、巨人がこの川を跨《また》いでいる態《さま》がある。
 橋下の水は、至って青くかつ深い、毎朝毎朝仙人が、上流の方で、幾桶かの藍を流しているに違いない、深いところは翡翠《かわせみ》色に青く、浅いところも玉虫色に雨光りがしている、川に産まれた岩魚は、水の垢から化して、死ぬると溶けて、素《もと》の水に帰るかとおもうまでに、水底に動かないでいる、人影がさしたりすると、ついと遁《に》げる、さすがに水の中で水が動いたのでもないことだけが解る。
 本道から折れて森の中に突き入る、この辺は草原で、野薊《のあざみ》、蛍袋、山鳥冑などが咲いている、幅の狭い川、広い川を二つ三つ徒渉《かちわたり》して、穂高山の麓の岳《たけ》川まで来ると雨が強くなった、登山をあきらめて引きかえすころは、濡鼠《ぬれねずみ》になってしまう、猟士は山刀《なた》を抜いて白樺の幹の皮を上に一刀、下に一刀|傷《きずつ》け、右と左の両脇を截ち割ってグイと剥《む》くと、前垂懸け大の長方形に剥《は》げる、頸の背骨に当るところを彎形《わんがた》に切り抜いて、自分の肩にかけてくれた、樺の皮で一枚合羽が出来たのはよいが、その皮には苔も粘《つ》いている、蘭科植物も生えていたから、後《うしろ》からは老木の精霊が、森の中を彷徨《さまよ》っているように見えたろう、雨は小止みになる。
 蒼黒い森を穿って、梓川の支流岳川は、鎌を研ぐように流れる、水の陰になったところは黒水晶の色で、岸に近いところは浮氷のような泡が、白く立っている、初めは水が流れている、後には水が水の中を駈け抜けながら人の足を切る、森には大石が多い、どの石も、どの石も、苔が多い、苔の尖った先には、一粒ずつの露の玉を宿している、暗鬱な森の重々しい空気は、白樺の性根の失せて脆《もろ》い枝や、柔嫩《じゅうなん》な手で人の脛《すね》を撫でる、湿った薇《わらび》や、苔や、古い落葉の泉なす液汁や、ジメジメする草花の絨氈《じゅうたん》やそんなものが、むちゃくちゃ[#「むちゃくちゃ」に傍点]に掻き廻されて、緑の香が強い、この香に触れると、雪の日本アルプスという感じが、胸に閃めく。
 今度はまた川になる、川の面は、呼吸《いき》も吐《つ》かず静まりかえっているように見えるが、足を入れると、それこそ疾風《はやて》が液体になったように全速力で走っている、流れの浅く、彎入した、緩やかなところに背を露わした石がある、苔が厚く活物《いきもの》の緑が蠢《うご》めいている、水草の動くのは、髪の毛がピシピシと流電に逆立つようだ。
 水の流れに、一羽のオツネン蝶が来た、水の上を右に左にひらりと舞う、水はうす紫の菫色、蝶は黄花の菫色、重弁の菫が一つに合したかとおもうと、蝶は水を切ってついと飛ぶ、水は遠慮なく流れる、蝶も悠々と舞う、人間の眼からは、荒砥《あらと》のような急湍《きゅうたん》も透徹して、水底の石は眼玉のようなのもあり、松脂《やに》の塊《かた》まったのも沈み、琺瑯《ほうろう》質に光るのもある、蝶は、水を見ないで石のみを見た、石を見ないで黄羽の美しい我影を見た、影と知らずに雌《め》と見たか雄《お》と見たか、あるいは水の玻璃層は、人間には延板のように見えても、蝶には何でもないのか、虚空の童女は、つと水底の自分を捉えようとして、飛びつくと倏《たちま》ち渦まく水に捉えられた、一、二間流されながらも濡れ羽を震って悶えた、それでも反動で二、三尺空へ※[#「風+陽のつくり」、第3水準1−94−7、157−3]《あが》った、助かったと胸を撫で下して見ているうちに、また飛び込んだ、今度も必死になって羽を顫《ふる》わしたが、水は苦もなく捲き込んで、遠慮なく流れて行く、澄ました顔で流れている。



底本:「山岳紀行文集 日本アルプス」岩波文庫、岩波書店
   1992(平成4)年7月16日第1版発行
   1994(平成6)年5月16日第5刷発行
底本の親本:「小島烏水全集」全14巻、大修館書店(1979年9月〜1987年9月)
入力:大野晋
校正:地田尚
1999年9月20日公開
2003年9月15日修正
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