、農家が閑になると、十月上旬頃までここへ放し飼にするのだ、彼らは縦に行き、横にさまよい、森の中の木々に大濤《おおなみ》の渦を捲いて、ガサガサひどい音をさせる、遠くから見ると、大蛇《おろち》が爬《は》っているのかとおもう、かくて青々と心まで澄んだ水の傍まで来ては、絶望の流人のように悄然《しょんぼり》と引きかえす、また来ては引きかえす、引きかえしてはまた来る。
 宮川の小舎へ辿り着いた、老猟士嘉門次がいるので、嘉門次の小舎とも呼ばれる、主人は岩魚《いわな》でも釣りに往ったかして戸が閉っている、小舎の近傍《そば》には反魂草《はんごんそう》の黄《きいろ》い花が盛りだ、日光から温かい光だけを分析し吸収して、咲いているような花だ、さっきの沼の傍で、冷たそうに咲いていた菖蒲《あやめ》と比べて、この性の微妙なる働きをおもう、小舎の後には牛馬の襲わないように、木垣が結んである、梓川へ分派する清い水が直ぐ傍を流れている、鍋や飯櫃《めしびつ》も、ここで洗うと見えて飯粒が沈んでいる、猟犬が胡乱《うろん》くさい眼で自分たちを見たが、かえって人懐つかしいのか、吠えそうにもしない、一体この神河内には、一里も先にある
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