こく》も、穂高の大岳、眉を圧して荒海の気魄、先ず動くのである。
 川の両岸――といっても堤《どて》を築いた林道を除く外は、殆ど水と平行している――には、森林がある、樅《もみ》、栂《つが》、白檜《しらべ》など、徳本峠からかけて、神河内高原を包み、槍ヶ岳の横尾谷、赤沢に至るまでみんな処女の森を作っている、最も幾抱えもあるような大木は見えなかったが、水を渉《わた》って森に入ると、樅の皮は白い苔《こけ》の衣を被《かつ》いでいる、淡褐色となって鱗《うろこ》のように脱落したのもある、風に撓《た》められて「出」字状に臂《ひじ》を張った枝は、屈《かが》めた頭さえ推参者めがと叱るように突き退ける、栂の黒色の幹が、朽ちて水の中に浸っている、大方|紫檀《したん》に変性するだろうと思われる、さすがに寒いと見えて、唐檜は葉の裏を白い蝋で塗っているのが、遠くからは藍色をして、天空の青、流水の碧と反映している、かような森林も、路という路はなくて、根曲り竹がふさがっているから掻き分けて行く。
 森が尽きる、また水を渉る、水は偏って深く、偏って浅い、右から左へと横切るのに、是非深いところを一度は通る、木の葉のように脈もなく繊維もないのに、気孔に幾億万の緑素があって、かくは青いのかと、足を入れながら底を見る、水に沈めるは、白い石も青く、水面より露われたるは、黒胡麻の花崗石《みかげいし》も銷磨《しょうま》して、白堊《はくあ》のように平ったく晒《さら》されている、しぶきのかかるところ、洗われない物もなく、水の音は空気に激震を起して崖に反響し、森を揺すっている、その光波の振動が烈しく眼を掠《かす》めるので、あまり見惚《みと》れると、眩暈《めまい》がして後髪を引き倒されそうになる、それよりも堪《たま》らないのは、水が冷たくて足が焼き切れるかとおもわれることで、足が呼吸を止められて喘《あえ》ぐのが透いて見える。
 ようやく川を渉る、足袋底がこそばゆいから、草鞋を釈《ほど》いて足袋を振うと、粗製のザラメ砂糖のような花崗の砂が、雫と共に堕ちる。
 このような川渉りを、幾回もさせられるのである。

     三

 穂高山の前面に来る。
 河原を切れて処女の森の一つに入る、白檜の森は、水のような虚空を突き、空のような水の面を伺い、等深線の如く横さに走っている、森の中の瀝青《チャン》のような、玄《くろ》ずんだ水溜りは、
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